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ばあちゃんの女の子

2011年02月15日

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カツンカツンと、聞き慣れぬ音が階段の方から聞こえてきた。
ちょっと寒くなりかけの秋の日曜、絵箱屋さんでイラスト仕事しながら店番してる時だ。
まもなく入り口のドアが開く気配がしたのでパソコンの画面から顔を上げると、でっかい茶色の毛糸玉で斜め下から編み棒が突き刺さってるようなものが見えた。
カツンカツン鳴ってたのはその編み棒だ。
何だかわからなかったが、とりあえず「こんにちは」とあいさつをした。

ぐるぐる巻きのその固まりは、だまったまま部屋のちょうど真ん中あたりまでくると、空いている椅子を見つけてゆっくりと着座した。
その時「どっこいしょ」だか「おいっさっさ」だかの声を発したので、それが人間の女で、たくさん着込んで杖をついたおばあちゃんだということがわかった。

ばあちゃんは「ふひぇーっ」とか「ひゅあー」とか、は行で始まる年期の入りまくった溜め息をいくつか漏らしながら、
その身体に巻いたショールやコートやカーディガンやニット帽らを剥がしていった。
それらをとなりの椅子に積み上げてしまったら、ばあちゃんとまったく同じ色合いと体積で、分身の術つかって二人に増えたみたいだった。

2秒くらい何も起こらなくて、その後やおら「よっこらさ」と立ち上がったのだけれど、背中がとっても曲がってるので、見た目には立ったのか座ったまんまなのか、あんまり違いがわからなかった。

さて、こちらはというとその時くらいまでは、ばあちゃんはここをどこか別の場所と間違えて入ってきたのだと思っていた。
あるいは、どこでもよくって、ただふらふらとさまよい歩いていたら、たまさかここに行き着いたのだと思った。
さらに、巾着をでっかくしたような頭陀袋下げてたので季節柄、柿とか栗を行商してまわってるのかもしれんとも思った。

いずれにせよ、きちんとあいさつをせんといかんので、「わあ、おばあちゃんこんにちは」と立ち上がって言うと、「ふひゃあ、やっとたどりついた」といって、力石徹のアッパーカットみたいな急な角度で下から見上げた。
その眼を見てどきりとした。
「つぶらな瞳ってのは、俺らのことを言うんだぜ小僧!」と何でか知らんけど、男言葉でキラリと輝いて、たいへんに魅力的だったからだ。

そんな両の眼にかかる白い髪は、おかっぱをほんのすこし短くしたみたいな形状、そいでもって、手を見ると手は、幼少の頃より慣れ親しんでる自分の田舎の祖母らと似たような面構えだった。
太くて短い黒かりんとうのような指、その先のギョロリ睨んでるような爪、しみの星を湛え天空みたいに奥行きのある甲。
野良仕事用の手だ。
裏を返すなら手のひらは、きっとたくさんの力強いしわだらけ、まるで五月雨あつめて早い最上川みたいだろう。

「わたしは、絵はがきば集めるとが趣味とやもん」と、ばあちゃんは話し始めた。
「きれか絵はがきのあるごたっとこなら、どこでもさろいて行くと」
「ほら、絵は高かけん買えんけどハガキなら150円くらいやけんね。買うて集めていつでも見れるやろう」

つまり、ばあちゃんはそんな風なので、いかした絵はがき求めあちこち杖つき歩いてまわる。
先週は若手の絵描きが天神(福岡の中心街)でやってるグループ展を訪ねていった。彼らの手による絵はがきが展示販売されてると聞いたからだ。
そこに縁あって絵箱も数点出品されていた。ばあちゃんはたまたま絵箱を見、そのかたわらに置いてあったDMの地図をたよりにこの場所にたどりついたのだと言う。

「うひゃあ、ばあちゃん、わざわざこがんとこまでたいへんやったでしょう?」
「ぃやあ、あたしゃよたよたゆっくりばってん、電車とかバス乗り継いで遠かとこでもひとりでいくとやもん」
「おお、達者かですねぇ、すごかですねぇ」
「ははは、そーげんこつなか」
と話しながらもばあちゃんは机や椅子の上に並んだ絵箱らを見渡していたが、「あーっった、これこれ!」と言うなり、その中のひとつに近づいた。

そして手に取るとそうっと撫でながらしばらく見ていたが、顔を上げると唐突に言った。
「これは、おいくらですか?」

うっく、と思わぬ質問に息を詰まらせた。
そしたら「ほら、この前のとこでは値段ば書いとらっさんかったでしょう?」とことばを続けた。

さて、その絵箱はグループ展の少し前、同じく天神近辺の画廊で行われた「少女採集」という企画展のために描いたものだった。
黒の背景に白いワンピースを着たお下げの女の子が座っている。左の手足が白いひもで結ばれている。
その画廊に置いてたときには5万という値段がついていた。オーナーと話してそれくらいが妥当だということになったからだ。

しかし、ばあちゃんは、ばあちゃんだ。
どうみても戦前の生まれで、その顔や背や手を見るならば、戦の最中、前後には木の実や雑草を喰らって凌いできたような人間だ。
今だって、1パック128円のしめじでは高いからと、少し歩いてでも別の店へ行き、98円のやつを買い求めるような、贅沢することを知らぬ類いの、土の香のするばあちゃんだ。
150円の絵はがきを、方々出歩きせっせと集めているのだ。

何も描かれておらねば数百円でもありそうな小箱に、何万もの値段を付して言うのは、その人生に対し礼を欠いているのではなかろうか....
(「じゃあ、あんた、見た目が若者や金持ちなら、平気でぼったくるんかい!?」というような話しではない、ここでは)

そんな印象が、0.8秒くらいかけて脳内で生まれ固まって形を変えて口から出てきた。

「あ、う、その箱ですか...それは箱ばってん、絵を描くのはなかなか大変で、それで、あの、高かばってん、2万円くらいすっとです...」

それを聞くとばあちゃんは、箱を元あった場所に置き、自分の分身の剥いだ衣類の山のとこまでもどると、埋もれてた頭陀袋をひっぱりだした。
中に手をつっこむとしばらくごそごそやっていたけど、じき利尻昆布みたいに大きなサイフを見つけ、お札を2枚取り出した。

そして差し出した。
「はい、どうぞ...ちょうどでよかですか?」

とてもびっくりおったまがった。
てっきり、「ひゃあ、そがんすっとですか、やっぱり高かとですねえ、手描きじゃもんねぇ、ほわーっ...」という嘆息が聞こえるものと思っていたからだ。

その時になってようやくわかった。
ばあちゃんは、この少女の絵箱を求めんがため、ただそのためだけに、真っ直ぐにここへやってきたのだ。

「うっかり5万と言わなくてよかった...」
なぜならば、その箱を求める様子があまりに確然としていて、ためらいとか揺るぎといったものがぜんぜんなかったからだ。
よっぽど桁外れでないかぎり、言われたとおりの金額を銀行へおろしに行ってでも差し出したという気がする。

それに「これ、おまけです」と手渡した小冊子が、売りものとわかるや否や、頑としてただでは受け取ろうとしなかったところを見るならば、あわてて値段を下げることも、よしとはしなかっただろう。

しかし、何でまたいったいこの絵箱をそれほどまで...
ばあちゃんは、白いワンピースの女の子に何を見たのか、想ったのか...

絵箱を包みながら、ふたつのことを思い出した。

その1「ガンダム」
長崎の実家からちょっといったとこの煎餅屋さんのそのまた先にリサイクルショップがある。
もと鉄工所か倉庫だったような吹き抜け天井のだだっ広い建物の中、食器や衣類、電化製品や家具など中古の日用品がなんでもかんでも売られている。

三年前くらい、煎餅を買いに行ったついでに、めぼしいものはないものかと入ってみたらなかなか素敵な有田焼の小皿があった。
なます盛りつけたらさぞかし映えるだろうな、とか思いながらレジらしきものの方へ行くと、腕時計やライターなどの小物が並んだガラスケースに囲まれた小さな空間があり、その端の方にうまく染まってないような茶髪の頭が見えた。

「これ、お願いします」といって声をかけるとそれは、”若干太った”と”がっしりした”の狭間にあるような体つきの30半ばくらいの兄さんで、60歳くらいの雌猫みたいなやさしい笑顔で「いらっしゃいませ」と応じてくれた。

「おお、好みのタイプだ。目写真とっとこう!」と思い、記憶せんがため兄ちゃんの姿に目を凝らそうとしたら後方の棚の上にずらーっと、色とりどりの細かい絵が描かれた箱が並んでるのが見えた。
それで今度はそっちに焦点を合わせた。

それらはすべてガンダムのプラモデルだった。
しかも、そのどれもが20年以上前、このロボットアニメが最初にテレビ放映された当時の古いものだった。

「うおーっ、ガンプラ、すごかですねーっ!」とでかい声あげて嘆賞する男に向かい、小皿を一枚ずつ新聞紙に包みながら彼が言うのには、「はい、でもこれは売りもんじゃなかとです...」

「ぼくんとこはむかし家が相当に貧乏やったけん、プラモデルのごたっとは子供んときは一個も買ってもらえんやったとです。」
「友達とか、持っとんのが、うらやましくてですねぇ...」

「今は大人になって、まあ、ちょっとは小遣いもあるようになったけん、ネットとかで買ってこうして集めよります。」

その2「田んぼ」
作家の水上勉が1986年に水俣をおとずれたとき、その講演の中で貧しかった少年時代の思い出を語った文章だ。
図書館行って彼の全集さがしても、どこにも見つかんなくって、あれーどこで読んだんだったっけ?と思ってたら石牟礼道子さんのエッセイの中だった。彼女がその講演を聞き後日そのエッセイの中でとりあげていたのだった。

「~日暮れになりましても、お母(か)んが戻ってまいりません。ひもじゅうて、お母んのいる田んぼに迎えにまいります。畦からこうのぞいて、呼ぶんでございますが、お母んはまだ、田んぼの中に漬かっておりまして、狭い田んぼで、胸までも漬かるような湿田でして、そこから、子供たちの居る方へ上がってくるのでございますが...胸から腰から、田の泥にまみれておりまして、蛭がびっしり、付いているのでございます。
それをこう、濡れた泥をかき落としながら、取り外します。外さないと子供たちのところに来れません。あちこち食いついておりますのを、一匹一匹引っぱって、取って外すのでございますが、泥水をかき落としますと、お母んの肌は、子供心にもお母んの肌はまっしろで...その白い肌に、蛭をひき外しますと鮮血が...さあっと流れまして、体じゅうに鮮血が...。
ものを書くようになって、お母んのその田んぼを買い戻しました。そこに文庫を建てました。いつかひとりの少年が、本を読みに来てくれる日を待っております」

と、いうふたつのことを思い出した。

ガンダムや田んぼにくらべれば、むろんその絵箱はまったく取るに足らないものだ。
しかし、その絵箱を希求するばあちゃんのたちふるまいは、リサイクルショップの兄さんや水上勉のものに負けぬほどの、なにがしかの強い思いで削られており、宝石みたいだった。

絵箱包みながら、なんだか申し訳ないような気がした。
ばあちゃんからだましとったものを、高値で買い戻させてるような気がしたのだ。

このおさげの少女の絵の中に溶け、ばあちゃんの心を惹き付けた物質、粒子みたいなものはもともと、ばあちゃんの中にあったものだ。
でも、ずいぶんむかしにその体の中から流れ出て行って、世界のいろんなとこをめぐっていた。
ロシアやメキシコ、海や山、鰯やカラスや、大根やひなげし、煙草の煙や泥水の中。
そいでもってたまたまある日、ひとりの絵描きに流れ着き、先月その筆の先から、ひょこんと出てきた。

そういう心持ちが強くした。

包み終わる頃、「あーっ、そうやった、箱にサインばしてもらわんばいかん」とばあちゃんが言った。
「ええっ、ボールペンしかなかですよ。ちょっと、かっこう悪かですよ」
「よかと、よかと、別に人に見せるわけじゃなかけん。息子にはこげんものば買うたってな、言わんとじゃもん。秘密にして、ひとりで、見るとやけん」

聞きたいことや話したいことがたくさんあったのだけど、ばあちゃんは「そいじゃあ、日暮れんうちに帰ろうかねっ」といって箱をしまうと、さっさと帰り支度を始めた。
「あの、もし良かったら名前と住所ばおしえてくれんですか?今度、個展とかするとき案内状とか出しますけん」と言ったけど「いやぁいや、よかよか、あたしゃあ、こげなばあちゃんやけん、よか」と言って受け付けてはくれなかった。

断るのを無理に、駅への道がわかるとこまで送って行った。
別れ際「握手ばしともらっとこう」と手を差し出すので握手した。
冷たくも暖かくもない、自分と同じ温度の手だった。

白いワンピースの女の子は、ばあちゃんにとっていかようなものであったのか。
(ばあちゃんは他の箱にはほとんど目もくれなかった。)

その絵は「少女」をテーマにした企画展をやるというので、そいじゃあと、そこら辺にある雑誌の切り抜き見ながら描き始めたものだ。
描いてるうち、仕草や表情、服装が変わっていき、いつの間にかそう苦労もせずに絵が完成した。

何か特別なメッセージを表現したわけでも、ましてや強い想いや魂なんてのは微塵も込めたつもりはない。

そんな”軽い”絵が、あるひとにとっては、とても”重たい”ものとなる。
むろん、逆もあるだろう。

なんちゅうこの世のなやましさ。

そしてそれはまったくもって信じるにあたいする。

azisakakoji

 
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