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顔
2014年03月21日
最近は76番にしている。行きつけのスポーツジムのロッカーのことだ。
初日、そこら辺が空いてたので偶然決めたんだけど、何回か使ってると愛着みたいなものが生じてくる。たまに使用中だったりすると、とても残念な気持ちになる。
76番の正面には66番のロッカーがある。そこをいつも使う男がいる。
青い作業服を着たヤニ臭い男だ。他にたくさん場所あるのに、わざわざおれのそばで着替えをする。「なんで66番なんだ、こいつは...」(自分の事は棚に上げてそう思う)
狭い通路、タバコは臭いし、肘や袖なんかが当たりそうになる。話しかけられたりしたらイヤなので顔見ないようにしてるけど、歳はたぶん50半ばくらいだろう。ここのとこ、なぜか来る時間帯が同じで、「アイツがいたらいやだなぁ」と思って行くと、いる。おれのロッカーの前に立っている。
今朝もいた。そしてとうとう話しかけてきた...
「朝から寒かとに泳ぐとね?」
やだなぁ、関わりたくないのに...顔は見ず、ちょっとうなずきながら「はい、寒かとに泳ぎます」と愛想ない返事をした。そして、そそくさとプールへ向かった。
いつものように3千泳いだ。シャワー浴びて更衣室にもどると、ヤニ男もちょうど帰り仕度の最中だった。さっき一瞬とはいえ言葉を交わしてしまったので、仕方なくちょこんと頭を下げた。着替えてると、また話しかけてきた。
「クロールで泳ぐと?」
うわあ、やだなあ...でも無視するわけにはいかない。ほんの少し振り返り、足元あたりを見ながら答えた。
「はい、クロールです。あ、平泳ぎも少し...」
「おいはクロールはできん、ありゃ難しか」
「はぁ、息継ぎのとき水が入るですもんね...」
ふと、彼はこのジムでどんな運動をやってるのかが気になった。
「に、兄さんは何ばしよっとですか?」
「おいは船乗り」
「え?あ、ああ、あの、運動はここでは何ばしよっとですか?」
「ああ、運動ね。自転車」
「ふ、船は遠くまで行くとですか?」
「大分の港から東北の方まで行くと。おいはピストンやもん」
「はあ...?」
「新しか船に乗ると。しんせい号。新しか船は気持ちん良かばーい。そいじゃ!」
初めて見るその顔は、渥美清を浅黒く精悍にしたような顔だった。
ピストンって何だろう?エンジンのことかな?”しんせい号”ってのは漁船?それとも貨物船?どんな字を書くんだろう...よし、今度会ったら聞いてみよう。
人は人を分類したがる。世界が単純になって物事深く考えなくてすむからだろう。個々の顔は黒く塗りつぶされ、”高級車乗った金持ち”だとか”引きこもりのオタク”、”~人や”~派”...そんな具合に十把一絡げ...彼もさっきまで”タバコ臭い労働者”という名の箱の中、他の似た者と一緒に分類されていた。それがわずか数秒の会話で、箱から飛び出し、彼固有の顔をまっすぐこちらに向けはじめた。その途端、ただの作業着が彼の作業着に、ただのタバコ臭さが、彼のタバコの臭いに...会いたくない人が、また会いたい人となった。
と、いうような文章を書いて、先月の西日本新聞にのっけてもらった。
最初、このブログ用に書いたんだけど新聞用にと半分の長さにし、内容もより読みやすいものにした。
さて、この文章を書く前後に心に浮かんだ文章が3つほどある。
まず、ひとつめは夢野久作の文章。
旧黒田藩士が中心となって結成された政治結社・玄洋社員の奈良原到について書かれたものだ。(以下)
~そのうちに四国の土佐で、板垣退助といふ男が、自由民権といふことを叫び出して、なかなか盛んにやり居るらしい。明治政府でも之を重大視して居るらしい...と云う風評が玄洋社には伝はった。
その当時の玄洋社員は筆者の覚束ない又聞きの記憶によると頭山満が大将株で奈良原到、進藤喜平太、大原義剛、月成勲、宮川太一なぞ云ふ多士済々たるものがあったが、此の風聞に就いて種々凝議した結果、とにも角にも頭山と奈良原に行って様子を見て貰おうではないかと云う事になった。
その当時の評議の内容を伝え聞いて居た福岡の古老は語る。
「大体、玄洋社と云うものは、土佐の板垣が議論の合う者同志で作って居った愛国者なんぞと違ふて、主義も主張も何も無い。今の世の中のやうに玄洋社精神なぞ云うものを業々しく宣伝する必要も無い。ただ、何となしに気が合ふて、死生を共にしようと云ふだけで、そこに燃え熾(さか)っている火のような精神は文句にも云えず、筆にも書けない。否、文句以上、筆以上の壮観で、烈々宇内(うだい)を焼きつくす概があった。頭山が遣ると云ふなら俺も遣ろう。奈良原が死ぬと云ふなら俺も死なう。要らぬ生命(いのち)ならイクラでも在る。貴様も来い。お前も来い。...と云ふ純粋な精神的の共産主義者の一団とも形容すべきものであった。
~中略~
其様(そげ)なワケぢゃけに、その当時の玄洋社で一口に自由民権と聞いても理屈のわかる奴は一人も居らんぢゃった。それぢゃけに、ともかくも此の二人に板垣の演説を聞いて貰ふて、国の為にならぬと思ふたならば二人で板垣をタタキ潰して貰おう。もし又、万一、二人が国の為になると思ふたならば玄洋社が総出で板垣に加勢して遣ろう。ナアニ二人が行けば大丈夫。口先ばっかりの土佐ツポオをタタキ潰して帰って来る位、なんでもないぢゃらう」と云ったやうな極めて荒っぽい決議で、旅費を工面して二人を旅立たせた...
~中略~
さうした玄洋社代表が二人、さうした辛苦艱難を経てヤツと高知市に到着すると、板垣派から非常な歓迎を受けた。現下の時局に処する玄洋社一派の主義主張について色々な質問を受けたり、議論を吹っかけられたりしたが、頭山満はもとより一言も口を利かないし、奈良原到も、今度は粉っ此方(こっち)から理窟を云ひに来たのでは無い。諸君の理窟を聞きに来ただけぢゃ...と睨み返して天晴れ玄洋社代表の貫禄を示したのでイヨイヨ尊敬を受けたらしい。
それから二代表は毎日々々演説会場に出席して黙々として板垣一派の演説を静聴した。さうして何日目であったかの夕方になって二人が宿屋の便所か何かで出会ふと、頭山満は静かに奈良原到をかへりみて微笑した。
「...どうや...」
「ウム。よさそうぢゃのう。此奴(こやつ)どもの方針は...国体には触らんと思ふがのう。今の藩閥政府の方が国体には害があると思ふがのう」
「やってみるかのう...」
「ウム。遣るがよからう」
と云って奈良原到は思はず腕を撫でたと云ふ。実は奈良原としてはブチコハシ仕事の方が望ましかった。土佐の板垣一派の仕事を木葉微塵(こっぱみじん)にして帰るべく腕に撚(より)をかけて来たものであったが、それでは持って生まれた彼一流の正義感が承知しなかった。
「演説はともかく、板垣といふ男の至誠には動かされたよ。此の男の云ふ事なら間違ふても良い。加勢して遣ろうと云う気になった」と後年の奈良原到は述懐した。
(夢野久作「近世快人伝」)
板垣のこと叩き潰すつもり満々で行ったのに、本人と話してみたら「いい奴だ、加勢しよう!」という気になっちゃったっていうのがいいですよね。
他に、勝海舟をたたっ斬るつもりで乗り込んだのに逆に惚れ込んでしまった坂本龍馬ってのもいますが、両者共に、主義だとか思想だとかそんなのおっぽいて、実際に会ってみて自分自身で判断するってのがいかしてると思います。
それにしても、ネットなんてやんない彼ら明治の人間の、いきなり肝胆相照らしまくり、豪放磊落な生き方ってのにはすっごくあこがれるばい。
でもってふたつめは、1923年関東大震災の時に起こった朝鮮人虐殺について史実や記録を基に書かれた「九月、東京の路上で」の中の文章。(以下)
~朝鮮人を殺した日本人と、朝鮮人を守った日本人。その間にはどのような違いがあったのだろうか。山岸秀はこれについて、守った事例では「たとえ差別的な関係においてであっても、日本人と朝鮮人の間に一定の日常的な人間関係が成立していた」と指摘している。つまり、本物の朝鮮人と話したこともないような連中とは違い、ふだん、朝鮮人の誰かと人としての付き合いをもっている人のなかから、「守る人」が現れたということだ。
言ってしまえば当たり前すぎる話である。だがこの当たり前の話を逆にしてみれば、「差別扇動犯罪(ヘイトクライム)」とは何かが見えてくる。
社会は、多くの人の結びつきの網の目でできている。そこには支配と抑圧がもちろんあるが、そうした力に歪められながらも、助け合うための結びつきも確かにあり、それこそが当たり前の日常を支えている。
植民地支配という構造によって深刻に歪められながらも、当時の朝鮮人と日本人の間においてさえ、生きている日常の場では、ときに同僚だったり、商売相手だったり、友人だったり、夫婦であったりという結びつきがあった。
だが虐殺者は、朝鮮人の個々の誰かであるものを「敵=朝鮮人」という記号に変えて「非人間」化し、それへの暴力を扇動する。誰かの同僚であり、友人である個々の誰かへの暴力が「我々日本人」による敵への防衛行動として正当化される。その結果、「我々日本人」の群れが、人が生きる場に土足でなだれ込んでくることになる。当時の証言には、自宅に乱入した自警団が日本人の妻の目の前で朝鮮人の夫を殺したらしい、という噂話が出てくる。実際にそういうことがあったかどうかはともかく、つまりそういうことなのである。
ヘイトクライムは、日常の場を支えている最低限の小さな結びつきを破壊する犯罪でもあるのだ。ごく日常的な、小さな信頼関係を守るために、危険を冒さなくてはならなかった人々の存在は、日常の場に乱入し「こいつは朝鮮人。こいつは敵」と叫んで暴力を扇動するヘイトクライムの悪質さ、深刻さをこそ伝えている。
(加藤直樹「九月、東京の路上で」)
この本には、抽象的な”記号”ではない、具体的な地名、日時、そして人々が登場する。
読みすすめていると、その時、そこに生きていた人、個々の存在を間近に感じ、時にかなりしんどくなる。
そんな中に、アメ売りの若者とあんま師の話しがでてくるんだけど、これがほんとうに良かった。
読んでボロボロボロボロ泣いてしまった。
今後も幾度となくこの二人のことを思い出すだろう。
さて、最後は石牟礼道子が1983年に鹿児島県は出水市にある浄土真宗のお寺で行った講演です。
~さっき天草の人たちの話をいたしましたが、天草には「天草の乱」、キリシタンの乱ともいいますが、天草の島人の半分が死んでしまった大変な一揆がありましたこと、皆さまご存じでしょう。
鹿児島でも真宗が禁止されて、弾圧の犠牲者が十何万人もいらっしゃるそうですけれども、天草のほうはキリシタンを禁止されたこともありますがひとつには、狭くて耕すとこもないような島なのに、幕府の直轄の地でもありましたので、貢租、運上、米を出せというのが非常に苛酷すぎたということがありました。
それが一揆の要因のひとつでもあったのですが、島の人口が半分になってしまうくらい、殺されてしまいまして、全く島全体がむざんに荒廃してしまった。そういう事態になったものですから、放ったらかしにしては幕府の威信にかかわります。生き残った島の民心の安定と、再びキリシタンを出さぬための教化を目的として、代官を派遣するのですけれど、この時非常にすぐれた代官が天草にやってくるんです。
鈴木重成という人でして、死んだ後に神さまになりましたが、鈴木神社というのが今も天草の本渡にございます。ご存じの方もいらっしゃるかと思います。
この鈴木重成さんは、最初、天草の乱の征討軍の、砲筒・弾薬方の最高責任者としてやってくるんです。直接、具体的に、キリシタンの島民たちを殺す新兵器の責任者としてやってくる。松平伊豆守、あの千恵伊豆といわれた信綱の家臣でして、ほとんど手作りの武器しか持たなかった一揆軍、女子供を含めた百姓漁師たち、島原の方と合わせまして二万三千余の、素手に近い人たちが、全部殺されてしまいますけれども、そういう人たちを殺す側の責任者としてやって来たのです。
幕府の征討軍は、土民軍に対して十二万四千余、女子供も数に入れた百姓方一人に侍六人のかんじょうで、圧倒的な軍勢が、諸藩をあげてはるばるつめかけて来ています。幕府方が残しました記録に、すべて死を覚悟したもの共ばかりで、侍相手の戦も、こうまで手剛くなかった、死ぬのを何とも思っていないものたちほど、始末に困ることはないというようなことが書き残してあります。自分から弾に当たりにやってくるような、そういう人たちを皆殺しにするための、当時の近代兵器の弾薬方の総責任者であった人が、乱が済んだあとの戦後処理をせよという役目を与えられまして、代官として天草へやってまいります。
その鈴木代官は乱が終ったあと、死んだ人たちを弔ったり、方々に寺を建てましたり、もちろんキリシタンを出さぬ努力をするのですが、疲弊の極に達した天草の石高、米の取れ高を幕府にさし出す分を、半分に減らしてくれという嘆願書を幾度も出すのですが、なかなか聞かれません。
それでとうとう、江戸の自邸に戻りまして最後の嘆願をしたためまして、島民たちのために腹を切るのです。
その直後は幕府は何の沙汰もしないのですが、あとの代官にこの人の甥を派遣しまして、甥の代になりましてから、石高を半分に減らします。重成が願ったとおりになったわけですけれども、わたし思うのに、当時の武士の社会で、主君の馬前で討死する、あるいは殿さまのために腹を切るというのはしごく当たり前で、武士の道義にかなうこととされておりましたでしょう。
それが天草の、幕府の方からすれば日本の端っこの小さな島の、名もない民百姓のために、領主にも相当する人が腹を切りました。それで重成さんは天草の人びとから神さまに祀られまして、今日までも尊崇を集めておりますけれども、わたしが考えこんでおりますのは、鈴木代官をして、腹を切るほどに思い詰めさせた石高半減という願い、そういう願いを生ぜさせるには、生身の人間の顔が、まなうらに浮かんでいなければ、腹を切るまでにはならないだろうと思うのです。
どういう人たちの顔付きが、眸の色が、この代官のまなうらにありましたのでしょう。あの顔この顔というのが具体的に浮かんでいて、訴える声が聴こえていて、こういう者たちのためなら、自分は死んでもよい死なねばならぬ。そういう人たちに、つまり、煩悩がついてしまっておらなければ、人間、腹を切ることなど出来ないのではないでしょうか。
(石牟礼道子「名残の世」)
「ふう...アジサカさんってばさあ、今回みたいなの、ちょっと重過ぎ...あたしやっぱしマンガとかの方がいいなぁ...」
「おお、そうか、すまん、すまん、こんなご時世なのでつい...」