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ジャック

2015年08月07日

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大学時代に知り合って、後に結婚することになった前の奥さんは、パリに生まれ育ったパリジェンヌ(知ってる人もいると思うけど、一筋縄ではいかない生きものだ)だった。

ずいぶんとむかしの話しだ。

モンマルトル近くの実家に行くと、彼女が小学生の時くらいに離婚したという母親が独りで住んでいた。
玄関入った廊下の壁にアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表した時の新聞の切り抜きと、教会の脇の暗がりで小便をしてるシスターの絵が飾られていた。
酒屋からもらったカレンダーの女優が温和に微笑む自分の実家の壁とは大違いだと思った。

彼女はパリジェンヌだが国籍はベルギーだった。
両親ともにベルギーはブリュッセル生まれで、ともに遺伝子が専門の生物学者。
連れ添ってすぐくらい、二十代半ばで新天地を求めて隣国フランスに引っ越してきたらしい。

熊本の大学を卒業後、彼女とともにパリに住み始めることになった。
しばらくしてから、ブリュッセルに暮らす祖父母のところへ遊びに行った。
ばあちゃんはエヴァという名で、ちっちゃくて見事な白髪で大きな声でよく話した。
もう引退してたけどベルギー戦後初の女医さんのひとりで、住居の一階にある診療所はそのまま残されていた。
 
じいちゃんはジャックといい、とても背が高くて禿げていて、用があるとき以外はあんまりおしゃべりをしなかった。
生物学者で、戦後まもなく学会で日本を訪れたことがあった。
その時のこととなると、相手が日本人ということもありにわかに饒舌になった。
京都の寺の美しさや、食べ物のうまさ、彼の地の人の親切さについて、微笑みながら繰り返しはなしてくれた。
悪口なんてのは一言もいわなかった。

ジャックの左の腕には、肩と肘の中間くらいに濃い青色で、6桁か7桁くらいの数字の焼き印が押されていた。
ナチスの強制収容所に入れられていた時のものだった。

彼女の祖父母はポーランド系のユダヤ人であった。
先の大戦が始まって間もなく、迫害を逃れベルギーへ移住して来たのだ。
ジャックは連行され、エヴァはブリュッセルのはずれの農家に匿われていた。

ジャックは幸いに生き残り、戦後もどってきた。
ドイツからもらった賠償金で、匿われてた農家から土地を買い小さな別荘を建てた。
となりに、タンタンを描いたエルジェの別荘があって、よく野菜の交換なんかをしてたそうだ。

ジャックは収容所のことはただの一言も、妻にさえ、はなさなかった。
ただ、戻って来たら玉葱を食べることができなくなっていた。
何があったか知らないけど、どんなことがあっても玉葱を口にしなかった。

最愛の孫娘の夫が、戦中、自分らを迫害したドイツの仲間、日本人であることをどう思っただろう。
内心は計り知れぬが、日本にも日本人に対しても、あたたかい好意だけしか感じなかった。

彼女とは日本、フランス、日本、ベルギーと15年間一緒に暮らした。
子供も二人授かった。
10年くらい前、ベルギーにいる時に別れた。

別れてまもなく居場所がなくなったので自分一人、一年ばかり彼女の祖父母の家で暮らすことになった。
ジャックはとうになくなり、エヴァは認知症で施設に入っていたので家は空だった。
女医であったエヴァは「ボケたら自殺する」といってちゃんとそれ用の薬を用意しておいたそうなのだが、ボケたら自分がボケたとはわからないので、薬は使わずじまいだ。

家は細長い3階建てでおんぼろだった。
床から釘が飛び出てて裸足では危なかったし、壁紙は剥がれ、トイレはよくつまり、炊事場のお湯は5Lごとしか使えず、洗いものには工夫がいった。
自分の見知ったユダヤの人たちを無理矢理に大別するならば、商売人でお金儲けが好きか、学者や芸術家で金銭に頓着しないかだ。
彼らは後者だった。

エヴァは当時はまだ生きてて、もしかしたら帰宅するやもしれないので、彼女の寝室はそのまま、ジャックの部屋を使うことになった。
彼専用の大きなベッドで寝、ヘブライ語とロシア語とポーランド語と英語とフランス語の本と数巻の8ミリフィルム、雑多な文房具類が残る三畳ほどの小さな書斎で絵を描いた。
ベッドにしろ机や本棚にしろ、長年共に過ごした主人が去った後、黄色い肌した東洋人に使われることになるとは思わなかっただろう。
きっと、嫌に違いない。
すまないなあ...という気持ちになった。
ベッドなんていうのはことさら嫌悪感をあらわにしていた。
中央が主人の大きな体躯にあわせて窪んでいてとても居心地が悪かった。
それで、慣れるまでは左右どちらかの端っこに寄るようにして寝ていた。

一度経験したことのある人ならわかると思うけど、離婚っていうのはなかなかしんどいものだ。
子供がいたりした場合はひとしおで、長年かかって形成された家族という、ひとつの宇宙が消えてなくなってしまう。
その喪失感というのは大きなものだ。

それゆえ、一年ばかりは気軽に人に会うこともままならず、知り合いの少ない異国暮らしをいいことに、閉じ籠って絵ばかりを描いていた。
それ以外に正気を保つ方法がなかったのだ。
どんどん絵がたまっていった。
床に並んでるのをふとみると、それは絵というより、アルコール依存症の人間が飲み干した酒の空き瓶みたいだった。

ときどき、ミナという初老の女の人が、郵便物をとりにやってきた。
彼女は戦災で身寄りをなくし、同胞の孤児達の世話をしていたエヴァとジャックのもとに引き取られ育てられた。
今は彼女がエヴァの世話をしている。
ミナが育ての親であるエヴァとジャックの名を口にすると、なんともいえない情愛がこぼれでた。
話してて、とてもあたたかい気分になった。


この人生で一番しんどい時期のひとつ、こころが最も弱ってる状態のひとときを、収容所帰りの男の部屋で過ごした。
彼の遺品に囲まれ、それらに染み込んだ体臭を吸い、残された写真アルバム(抜き取られ、ところどころになってる)をめくった。
この家を出るとき、別離の苦しみが少し和らいでいた。
絶望が、もっとより大きな絶望の懐に抱かれ、愛撫され、癒されたみたいだった。

ジャックは戦争の悲惨さについて何も”言葉”では語らなかった。
ただ、バーベキューしてるときも、ひ孫と戯れ声高く笑っているときも、その腕には青くて奇妙な数字が並んでいた。
その数字がその場の幸せな空気をいつも一瞬で飲み込んでしまうようだった。

しかし、腕に刻まれた数字、それにも増して心に強く残っているのは、彼のかすれた深い声色や、陰影の濃い額、とても静かなまなざしだ。
それらは、もの言わぬジャックが経験したであろう戦争の悲惨さや残虐さを、”言葉”よりも強く重たい”ことば”で語っていた。

彼が亡くなった後では、残されたベッドもまた、黙しながら語っていた。
ベッドの大きなくぼみ、それは何も彼の身体が大きかったゆえだけではないだろう。
ありきたりの言葉にはけっしてできぬ辛い経験の記憶の苦しみに、
眠れず、もがき、身をよじったたその痕跡であったはずだ。

その痕跡と10年前、一年の間、毎日肌を合わせていた。
ある程度は己が身に染みてると思う。
叶うことなら、それが絵筆の先から出てほしいと願う。


azisakakoji

 
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