トニオ・クレーゲル
2009年12月01日
中学2年のころのはなしだ。母の知り合いにO先生という人がいた。空手の有段者で、地元の商業高校で数学を教える傍ら部活で空手を教えていた。ある日曜の午後マンガ読んでたら「あんたO先生のとこ空手、習いに行かん?~くんと、~ちゃんもいっしょよ」と長電話終えた母が言った。「げげー、やだよー」と反抗してはみたが結局そのふたりの~らと毎週末、空手を習い始めることになった。
3人して緊張して高校の小体育館に行くと部員はたったの5人だった。男3人に女がふたり。アスパラガスみたいな中坊のおれらに比べ、男らはじゃがいもみたいにどっしりたくましく、足に毛がいっぱい生えていた。女らは朝穫ったばかりの大根みたいにふくよかで色っぽかった。
何回か通うと、組み手もやるようになった。受けたり受けられたりするのだが、とても痛かった。高校の兄ちゃんらの腕や足というのはどうしてこうも太くて固いのだろうと閉口した。姉ちゃんたちも、所詮女だと見くびってたらやはり痛かった。手足はよくしなる竹の棒みたい。ひゅんと飛んできてぱんっと打たれ骨身がきしんだ。けれどもその胸の部分は言いようもなく柔らかく、放った突きが誤って当たろうものなら何とも言えぬ感触にたじろいだ。拳の先にまだ知らぬ豊かな世界が存在するのを実感し、一瞬気が遠くなった。
そんな風にして毎週末続けてたら稽古がけっこう楽しくなってきた。痛いしきついし型をやるのは退屈だったけど、組み手が面白かった。間の取り合い技の掛け合いに熱中し、一本をとったときの爽快さに気分を良くした。
かといって週に一回の稽古にあきたらず本格的に町の道場に通いだしたのかといえばそうでもなく、その場にとどまった。O先生に習うというのが心地よかったからだ。彼の人柄を好いた。
この空手の集まりは高校の正規の部活動としては認められてはおらずO先生が個人の意思でやっていた。だから彼の都合でいつ消えてなくなってもよかった。しかし集まりが数人でも、ひとりのときでさえも、毎週O先生は自分の空手教室を開いた。数年して高校の小体育館が取り壊され使えなくなると、はじめ貸し倉庫、幼稚園の講堂、町の公民館と場所が移って引き続き行われた。そうこうするうち教室のことはしだいに口から口へと評判となり、人が多く集まるようになった。いつの間にか小中学生が増え、高校生はぼくらだけになった。
高2になると学校の部活が忙しくなって足が遠のき、いつの間にか行かなくなった。
大人になってから、なんでO先生はあんなにまじめに毎週毎週、教室を開いていたのだろうかと不思議に思った。月謝なんか最初はなかったし、それを見かねた父兄が相談して集めるようになった”お礼”の金額も微々たるものだった。そんなことより大切な日曜日の午後のこと、他の用事や自分の家族へのサービスなんかがあっただろうに。空手教えるのを優先していたのにはどんな思いが胸中にあったのだろう。いつか機会があったら聞いてみたいもんだと思った。
ところでこの空手の教室について、冬になる度思い出すことがある。始めて2年目、雪の日の稽古のことだ。その時分道場としてつかっていた貸し倉庫に行くと、集まったのはぼくら中学生3人だけだった。O先生は少し遅れてやってくるなり真顔で唐突に、ようし今日は公園で特訓だ!といった。ふり返れば、このとき彼に何か自分を律する必要があったのかもしれぬと思うが、その時はただおのが身を案じるより他なかった。だって晴れてるとはいえ、雪の上を裸足で稽古だ。
強烈に寒かった。しばらく動いてたらなんとか身体は火照ってきたけれど、とにかく足が冷たい。というか、冷たそうだ。なにしろ感覚麻痺してるんで、熱いのか冷たいのかわかんなかった。ちょっと涙目になったが、誰も泣き言をいわなかった。体力も学力も好きなマンガも異なる3人だが、こういう時に弱音を吐くのは意気地なしだとの思いは共通していた。白く濃い息と気合いだけを吐き続けた。
そうやって淡々と突きけり繰り返してたら、わあ、何だいこの感じ!たいへん気分が高揚し、すごく清々しい心持ちになってきた。頭上の青空みたいにこころが澄んできた。とっても心地よく、いつまでだって続けられそうだ。
しかし気づくと、いつのまにか時はたち稽古は終わりになった。
「正座ーっ!」「神前に礼!」「お互いに、礼!」「あれ?」「だれ?」
礼をして顔を上げると、前にしわくちゃのじいちゃんが立っている。
じいちゃんは「よお寒かとにがんばったねえ、芋ば食べに来んね?(よく寒いのにがんばったね、芋を食べに来ませんか?)」と言った。
公園の地続きに小屋みたいな家がたっていた。案内されるがままお湯で足を洗い、干し柿の色と匂いのするこたつにはいった。こたつの中でしもやけの足と足がぶつかって、ぎゃっと悲鳴をあげた。
芋は熱くて甘くてうまかった。じいちゃんは空手の教室のことやぼくらの学校、O先生の身の上など、いろんなことについて質問し、「ほぉ、ほぉ」「近頃はなあ」「そがんですかぁ」と熱心に聞きいっていた。年寄りというものはだいたい自分のこと、かつての仕事の苦労話や戦争や持病のことをのべつまくなく話すものだと思っていたのに、このじいちゃんは何でもかんでも聞きたがった。はなしを聞くのがこの上もなく楽しそうで、ぼくらを離すまいと芋の次はじいちゃんお菓子(つまり、甘納豆やカンロ飴や横綱あられ)を運んできた。ぼくらも依然として興奮していたので、我先にといろんなことをはなした。しかしものの30分もしないうち、親が心配するからということでおいとますることになった。
「ごちそうさまでした」「ほんとにありがとうございました。また、遊びに来ます」といって立ち去った。
もちろん”また”なんてなくって、じいちゃんとはそれっきりだった。もうとうにこの世にはいないだろう。なんであの時ぼくらばっかり話して、じいちゃんのことを聞かなかったのだろうとその後何遍も後悔した。ぼくらの前に現れ芋をさし出すまでに、いったいいかなる人生があったものか。聞いたのならおそらくはどんな小説よりも味わい深いものだっただろう。しかしそうしなかったので、じいちゃんはただの芋のじいちゃんだ。でも同時に、芋といえばそのじいちゃんだ。後年、蒸かしたさつまいもを食べるたびに彼の姿が眼に浮かんだ。干し柿こたつとしもやけと澄んだ青空を思い出し、ほっこり、いかした詩の一編でも読んだ心地になる。
ところでここで話しはいきなり最近のことに飛ぶ。去年の師走のことだ。久方ぶりに実家に帰省した。マンガ読んでたら「あ、こうじ、ちょっとごめんみりん買って来て」と母がいうので、スーパーに買いに行った。支払い済ませてふと見ると一番向うの端、買ったものを袋に詰める作業台のとこにO先生が立っていた。持参の買いもの袋をひろげ、レジに並んでる妻を待っている。背筋がしゃんと伸びて道場にいるみたいだ。おだやかなまなざしで妻を見守っている。その姿によって、数年前定年退職されたこと、二人の子供はそれぞれ結婚し今は夫婦ふたり暮らしであること、ごく最近まで空手の教室を続けられていたこと、などが想像された。会わないでいた25年間の彼の人生がくっきりとその姿に見てとれた。
あっちこっちに移り住みあっちこっちに駄作や駄文を連ね、ころころ変化して生きてるぼくが小さなデジタル電化製品みたいなものだとするなら、ひとところにとどまりひとつの仕事を為しそこで自分の生を充実させてきた彼はぼくの目には大きな銀杏の樹のごとく映った。そのはっきりとした輪郭に向かって遠くから一礼をすると黙って立ち去った。
帰ってそのことを母に告げると「あんた相変わらず変わりもんやねえ、話しかけたらそりゃあ先生喜ばれたやろうに」と言われた。
ときどき、影響を受けた人物を教えて下さいと聞かれる。よく知られた人の名を上げ連ねるのは簡単だけど、特には答えないことが多い。自分の生活の中で実際に会った人たち、空手の先生や芋のじいちゃんみたいな人たちに比べると、著名な人々からの影響はさして大きくはないと感じるからだ。
むかし犬養道子が「世界」かどこかに「外国の人を日本に招待するとしたら季節は冬にかぎる」というようなこと書いてるのを読んで、「ふん、お金持ちのお嬢さんが何をたわけた事を、季節はいつだって夏に決まってるぜ」と思ったが、ヨーロッパに7年ほど暮らしてみて日本の冬の類いまれなすばらしさが身にしみてわかった。一言で言うなら、キッパリしているのだ。とっても寒いが空はどこまでも青く空気は澄んで光に満ちている。西洋のどんより暗くて重たくてただただ寒い冬とは大違いだ。もしも、宇宙「冬」選手権大会とかがあったのなら、地球代表は日本の冬を置いて他にはないと思う。カナダやオーストリアなんかの冬も少しは健闘しそうだが、ベルギーやパリの冬なんてのはまるっきり予選落ちだ。
そんないかした本邦の冬が訪れる今頃になると、この曲がひんぱんに鼻歌にかかる。冬のキラキラした感じがよく出てると思う。