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トーマとカシア

2012年09月15日

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セーヌの左岸、サン=ルイ島の向かいのアラブ世界研究所の裏手にジュシューと呼ばれる大きな大学がある。
20代半ばのひと夏、そこの分子遺伝学の研究室で皿洗いのバイトをやった。
皿洗いといってももちろん、オムライスや鰯の煮付けなんかが盛ってあるような食器ではなく、シャーレやビーカー、フラスコなど、実験で使われたガラスの容器を洗浄する仕事だ。

朝行ったのなら、用済みのガラス容器がずらりとラボの前に並んでいるので、台車ごろごろ押して回収しに行く。
それを10畳くらいの広さの洗い場に持ち帰り、異臭を放つ変な色の液体を流しに捨てた後、ピカピカに洗うのだ。
ガラスの器は小指にも満たぬ小さなものから妊婦の腹みたいにでっかいものまで、大きさも形も様々。
ひと抱えもあるようなでっかいフラスコなどは、中に入った液体流す時、ちょっといやーな感じだった。
ボコボコと脈打ち、まるで巨大な魚か何かに喰ったものを吐き出させているかのようだったからだ。
その感触が今も腕の中に残っている。

さて、そのフラスコみたい大きくて真ん丸いおばさんがひとり、いつも同じ洗い場にいた。
唯一の同僚、ポーランド人のカシアだ。
同僚といっても、作業を分担してやっていたわけではない。
彼女は彼女のラボに雇われていて、自分の棚や流し台を持っていた。
つまり互いの仕事には干渉せず、ひとつの作業場を共同で使っていたということだ。

日がな一日同じ場所にいるし、他に話し相手もいないので、よくおしゃべりをした。
ふたりともフランス語カタコトで、たいして込み入った話しはできないんだけど、身振り手振りや絵を描いたりして、いろんなことを語らった。

彼女が南洋の小鳥みたいな声(容姿に似合わず、最初はびっくりした)で話すところによると、ブリュッセルには5年前、旦那と赤ん坊と3人で住み始めたのだそうだ。
先に移住していた従兄弟らが、大工や左官など家の内装に関わる仕事でけっこう成功しており、それを頼って来たのだという。
夫はその従兄弟の元で仕事をし、自分は子育て。

「実家への仕送りなんかでお金はあんましなかったけど、とっても幸せだったのよねーっ」
しかし旦那さん、ちょっとしたトラブルが元で従兄弟と大げんか、自分も子供もおいて出て行ってしまう。
それっきり音沙汰なし...
「たぶん国に帰ったんじゃないかしら...」

そんなこんなで、今はここで働き、独りで子育てをしている。
あと1、2年働いて、もう少しお金がたまったら、さっさと故郷へ帰るつもりだ。

カシアが担当しているラボはこちらの1.5倍くらいの大きさで、
その分、洗いものやその他の雑用もさらに量が多かった。
こっちはいつも3時には退けたが、彼女は夕方6時まで働いた。

ある日のこと、殺菌済みの容器を取りに行って戻ってくると、彼女が困ったような顔をして話しかけてきた。
保育園の都合で今日に限り、子供を4時に迎えにいかなくてはならなくなったそうだ。

「あたしは仕事を抜けられないし、知り合い数人に連絡してみたけど、みんな都合が悪いのよ」
「ついては、こうじ、すまないけど、あなたが息子を迎えにいってくれないだろうか...」

そう大切な用事があるわけでなし「おお、そりゃあ大変だ、もちろんオッケー!」と引受けた。
(というより、他に当てがないからおれなんぞに頼んだのだろう、断れるはずがない)
彼女はさっそく電話で、アジサカと名乗る日本人が代理で行くということを伝え、さらに保育園宛の短い手紙を書いた。

その手紙を渡すとき、「私にあんまり似てないけど...」といって子供の写真を見せてくれた。

眼がまんまる。
色白で痩せてて、ちょっと神経質そう。
北方の森に住まうちっちゃな動物みたいに見えた。

カールした金髪と少し上を向いた鼻が母親そっくりだったので
「すっごく似てるやん!」というと
「あら、そおお」と喜んだ。
「でも性格は反対なのよね、あたしみたいにおしゃべりじゃないし...人見知りだし...」

「あなたとは初対面でしょ。無口でいると思うけど、気にしないでね。私が言うのもなんだけど、やさしくていい子だから...」
「とにかくよろしく頼むわ」

内気なコはどちらかというとありがたかった。
(でかい声はりあげドタンバタンはしゃぎまわってるような子供がとっても苦手だ...)

「トーマっていうのよ」
告げられた子供の名前は、なんとなく儚い感じがした。
父親がどっかに行ってしまった子にふさわしい名に思えた。

「保育園からまっすぐここに連れてくるように言ったけどさ、ここで母親の仕事終るの待ってるのも退屈だろう?」
「6時まで一緒にどっかで遊んでるよ」
いつの間にやら勝手に芽生えた親近感のせいで、さして深い考えもなしに彼女にそう提案した。

「まあ、ほんとに!それは助かるわー、ありがとう」
カシアの大きな白熱電球みたいな顔がさらに明るくなった。
財布から20フラン札を取り出すと、「これでアイスでも買って食べて!」と云って手渡した。

書かれた住所を頼りに保育園にたどり着くと、そこはどこにでもあるような石造りの建物だった。
ブザーを押すと10秒くらいでカチリ扉が開き、入るとすぐに小さなホール...迎えにきた父兄が右往左往していた。
見回すと保母さんらしき人がいたのでつかまえて、トーマを迎えにきたことを告げた。

「ああ、トーマね、ちょっと待ってて連れてくるから...」
想像とはうらはらに、ニッコリ微笑んで言われたのでびっくりした。
「ふう...」
変な東洋人と不審がられるのを覚悟してたのに、幸い話しが通じてる人に当たったみたいだ、よかった...

そして約一分半...
うつむいて出てきた子供は写真と異なり坊主頭で、皮膚は小麦色だった。
望まないのに無理矢理髪を短く切られ、肌を陽に焼かれてるみたいだった。
伏せててもわかるそのまんまるい両の眼でトーマだとすぐに確認ができた。
まんまるい眼は一度大きく開いてこちらを見ると、ボンジュールと小さく言い、またすぐ下方に向けられた。

カシアからの委任状を園長の次に偉そうな人に渡し書類にサインしていたら、さっきの保母さんが近づいてきた。
「あなた日本人なのね、東京から?」
と質問するので、
「いいや、南の方、長崎」
と答えた。

「まあ、ナガサキ...知ってるわ...」
と眼を細めるので、これはやばいと思った。
その後に続くであろうたくさんの問いかけや意見のやりとりが予想されたからだ。

かつて何回か”ナガサキ”についてフランス人と話したことがある。
原爆から戦争、日米関係、はてはフランスの原発のことへとどんどん話しが展開し、そうとうに疲れた。

フランス人、”なんでそんなことまで知ってんだーっ?”っていうくらい自国以外の国について知識がある。
(とてもいいことだと思う)
そして他の文化圏の人間と知るや、こっちの語学力などおかまいなしにスッパスッパと意見や感想ぶつけてくる。
(いいことだと思う)
真剣に相手をしていると、力がほんとうにすり減ってしまう。
(これはしんどい。もちろん、時と場合によるけれど...)

「ここで力を使い果たしては、満足いく子守りはできん!」
そう咄嗟に判断した。
彼女の細めた眼がこちらに焦点合わせぬうち「あ、そいじゃあ、人を待たせてありますので」とトーマの手をとった。
逃げるようにして保育園から通りに出てると、そのまま黙って数十メートル、足早に前進した。

数十歩進んだとこで信号にひっかかった。
その時になってはじめて、まだあいさつ以外のことばを交わしていないことに気がついた。
さらには、しっかり手を繋いでいること、トーマが何も言わずそれにしたがっていること、にも気がついた。

あわてて身を低くし彼と同じ背丈になった。
肩に手をおいて、「おれ、こうじ。お母さんの友達。いっしょに働いてるんだ。」と言った。
「ウイ、ムッシュー」と小さな、けどはっきりした声が返ってきた。
トーマという名に似つかわしい話しぶりだと思った。
可愛らしいと同時に、ある種の風格がある。
うむ、この子にうそやごまかしはできんな...と思った。

また手をつなぎなおし歩き出した。
横断歩道渡りながら「母さんの仕事が終わるまでいっしょに散歩しよう。まずはセーヌに出てみよう」と提案した。
「ウイ、ムッシュー」
さっきと同様の返事がかえってきた。

「いきなり、あまり良く知らない人と手をつないだりするのイヤじゃない?」
「ううん、大丈夫」
「今日は保育園でどんなことやった?」
「絵を描いた」
「へえ、何の絵?」
「うーん、いろいろ...」
「おれ、君のお母さんと働いてるけどさ、絵を描く仕事もしてるんだ」
「あ、そう...」

ぽつりぽつりと話しながら、まずはサン=ルイ島を目指した。
そこにうまいアイス屋さんがあるからだ。

どの味にしようか迷ってたので、ノワゼットなんかいいんじゃない?と進めるとあっさりそれに従った。
アイスなめなめゆっくり歩いてシテ島へと向かった。
半分くらい食べたとこで、「それは何味?」と聞くので「キャラメルとしょうが!」と答えると、
眉根にしわを寄せ「しょうが?」って、知らない風な顔をした。
「おれの国じゃあ、よく料理につかうんだ...」
「ちょっと苦いけど、少し食べてみる?」
「うん」
「どう?」
「そんなに悪くない...」
「ほんとに?」
「うん、でも少し変...」

ノートルダム寺院を二人して眺めてたら、テュイルリー公園に移動遊園地が来てるっていう話しが耳に入った。
5歳の子供には、寺院なんかよりだんぜん遊園地の方がいいに決まっているだろう。

「遊園地行こうか」
「...?」
「ちょっと行ったとこの公園に遊園地があるんだ...」

トーマの顔つきが変わった。
額に差した影のようなものが消え、晴れやかな顔になった。
けど、それはほんの一瞬だけ。
「おっと、うっかり簡単に打解けてしまいそうになっちゃった...」
とばかりに、また大人びた顔にもどった。
その変化の仕様がかなり愛らしかった。

「あっ」
しばらく歩くと、トーマが声を漏らした。
大きな観覧車がまんまる目玉の視界に登場したからだ。
歩を早め公園に入ると、人がわんさか...
ここではぐれちまったら一大事、と繋いだ手を握りなおす。

回転木馬に回転ブランコ、ゴーカートに急流すべりにジェット(というほど激しくなさそうだけど...)コースター、おばけ屋敷、射的、輪投げ、アヒル釣り...60あまりのアトラクションが所狭しと軒を連ねる。
さらにはいろんな食べ物屋もずらり並んで、そのどれもが、移動式っていうから驚きだ。
事が終わり次第、パタンパタンと畳んで引っぱっていける。

「すごいなあ、たくさんあるよなぁ...」
「・・・・・」
「ひとつだけ、どれか選んでやっていいぜ!」

時間も、そしてお金もそんなになかったのでそう云うと、彼は小さくうなずいた。
まずは端から端までひととおり全部見て回ることにした。

それにしたって人が多い。
「よく、見えないだろう?」
繋いでた手を解き彼の腰のとこを捉まえると、よいしょと持ち上げ肩車をした。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
こういうのに慣れてないせいか、最初はお尻も膝っ小僧もコチコチだった。
しばらくすると、高野豆腐を戻したみたい、やんわりしてきた。

彼が手綱引いてるわけじゃないので、こっちの判断で気の向くままに見て回った。
そうしてると不思議なことに、肩に乗ったお尻や胸元にかかるふくらはぎ、頭におかれた手のひらの感触なんかで、黙っていても彼の心具合がわかるようになってきた。

木馬やコーヒーカップなどゆっくり動くものより、回転ブランコやコースターなど激しく動く乗りものの方に興味を示している。
さらには、黙って座って乗ってるだけのものより、輪投げや射的、ボール蹴って的に当てるゲームなど、自らも身体を動かす競技性のあるものの方に、より強く惹かれてるようだった。

四分の三くらい見終わったとこで、肩に今までにないちょっと変わった気配がした。
地上に降ろし、「おしっこ行きたくない?」と尋ねると、コクンとうなずいた。
それでいったん遊園地を出ると、公園内の樹がたくさん植わってる場所へと向かった。
パリ(っていうより日本以外の国)のトイレ事情ってのは悲惨なので、これくらいの小さな子供だったら、さっさと路傍で用を足すのが得策だ。

「さあ、ここらあたりでいだろう...」
人目の少ない適当な木陰に入り、そううながした。

「ぼく、ここじゃいやだ。トイレに行きたい」
トーマがはじめて自分の意見らしきものを云ったのでびっくりした。
坊主頭で陽に焼けていても、中身はやっぱりくるくる巻き毛で色白のまま、デリケートなんだなぁ...

いいや違う、デリケートっていうのじゃないな、この物腰は...
なんというか、小さいながらも彼なりのダンディズムみたいなものがあるのだ。
うむ、そんならこちらも、きちんと応対せねばなるまい。

彼の肩に手を置いて、その目の高さまでかがむと、まんまるい目をしっかりと見て云った。
「うん、トーマ、ここで用を足すのはたしかに気分いいもんじゃないだろう」
「けれど、トイレさがし出したって十中八九混んでて並ばないといけないだろうし、お金だって払わなくちゃならない」
「時間あんまりないし、ここでさっさと終らせたほうがいいと思う...」

「...うん、オッケー」

とまあ、たかだか小便の話しだが、それは今までの会話と異なり、互いの意見を述べ合うという、言ってみればちっちゃな議論みたいなものだった。

おかげで、これを機になんだか親密さが深まった。
トーマは自分から話すことはないんだけど、こちらが質問をすると、その答えに若干尾ひれをつけて話してくれるようになった。

例えばこんな感じだ。
「喉、乾かない?」
「ううん...だってさっきアイス食べたから。」
この場合、”アイス食べたから”ってのが尾ひれにあたる。

さて、ひととおり全部のアトラクションを見終わって彼が選んだのは”壁登り”だった。
5メートルくらいの垂直に立てられた壁のあちこちに突起物がでていて、それに手や足をかけ上まで登って行くというものだ。
てっぺんには鐘がぶらさげてあって、それを見事鳴らすことができたなら、おもちゃなどの景品がもらえる。
もちろん、命綱付いてるので転落の心配などはない。

「おおー、いいの選んだなー」
「でも、なかなかの高さだし、難しそう...」
「大丈夫かなあ...」
わざとらしくないくらいの物言いと身振りで驚嘆してみせると、トーマは「ぼく、木に登るの上手なんだ。こんなのは初めてだけど...大丈夫と思う」と、真剣な顔で答えた。

観察してると、たいていの子は身体に固定された命綱を両手でたぐりよせながら、足だけを突起物にかけて登っている。
けれどトーマ場合、命綱はあくまで非常時のもの。それにはいっさい頼らず、自分の手足だけで挑んでいた。

「ほお、ちっこいのに本格的やん...こいつどっかでロッククライミングかなんか見たことあるのかな...」

後から登り始めた子供が綱を上手に使って駆け上がり、トーマをすぐに追い越していく。
トーマはそれには頓着せず、相変わらずゆっくりと時間をかけて突起物を物色すると、これぞと思うひとつに手足を掛け、自分の存在を染み込ませるように体重を乗せていく。
遊園地の世界、気ままで軽やかに動く幾多の人や物の中にあって、それだけがためらい、考え、重厚な動きをしている。

じっと見てたら、トーマの体重がいつの間にか5倍くらいに増えている。
重力はその全部が壁に向かっているようで、どんな突風が吹いてもトーマが落下することはなさそうだ。
子供の形をしたアフリカ像が壁にどっしり腹這いになっているように見える。

像のトーマはのっそりのっそり登り続け、長い時間をかけ頂上まで辿り着いた。
そして、鼻だか手だかを伸ばして鐘を鳴らした。

ゴォォーン、ゴォォーンってゴシック教会みたいなやつとばかり思っていたら、チリリリリリンと小さな鈴のような音色だった。
鈴の音はトーマから重量を奪い、像から猫みたいに身軽な生きものへと変身させた。

猫のトーマは、自分が勝ち得た高さを満喫するでもなく、鐘をならすとすぐにするするするっと、地面に下りて来た。

「わあ、すごいぞトーマ、良くやった!」
近づいてってそう云おうとしたら、水色のポロシャツ、胸やお腹のとこがひどく汚れたので思わず、「わあ、汚れちまったなあ...」と吐いてしまった。
しまった、大事なとこでしくじった...
まずはその偉業を讃えるべきなのに、なんちゅう失態、大バカ者だ...

「すっごいぞ!トーマぁぁーっ!」
失言を打ち消すため、予定よりもっと大きな声をはり上げた。
さらには脇下に両手をねじ込んで高々と持ち上げた。

猫みたいに軽くて、いきおい余ってうっかり宙に放り投げそうだった。
脇の下はさっき像だった時にかいた汗でじゅちょじゅちょに熱く濡れていた。
少年未満の子供だけが放つ、枇杷の果汁みたいにまろやかな汗の臭いがした。

トーマは「何をそんなに興奮してんだろう...」ってな顔でこちらを見下ろしていた。
それでバツが悪くなってしまったので、地上に降ろし、賞品をもらいに行くことにした。

壁登りにはけっこうな時間を擁したのに、おもちゃを選ぶのは驚くほど早かった。
手にしたのは、絵の具やクレヨン、パレットなどが箱詰めにされてる”お絵描きセット”だ。

「絵描くの好きなん?」
「うん、とても好き、でも...」
「...でも、何?」
「...何でもない...」

会話に影が差し、うまく続かなくなっちゃったので、なんとはなし時計を見た。
「わーっ!」
いつの間にやらカシアの仕事が終る時間が近づいていた。
「もう帰んなくちゃ。母さんが待ってる」
「...」

地下鉄の駅へと急いだ。
ちょっと遠回りになるけど、歩いて行くより幾分かは早く着くはずだ。

駅は夕方帰宅の時間で、とても込み合っていた。
てくてく歩いて帰れたのなら、壁登りや、絵を描くことなんかについて話すつもりでいたんだけど、大雨による土石流みたいな人の流れの中、はぐれないように手をしっかり繋いでおくので精一杯だった。

最初の駅も次の乗り換えの駅でも、あろうことか人混みに押し流されホームに出た途端、目の前で電車の扉が閉まってしまった。
次の電車はなかなか来てはくれず、大学に戻ったときには約束の時間を30分も過ぎていた。

こんなことなら歩きゃあよかった...
公園を出てから仕事場に着くまでに二人が交わした会話っていったら、
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
を数回繰り返しただけだった。

カシアは部屋の奥の方に置かれた椅子に座っていた。
ずっとそうして待っていたのか、その時ちょうど腰を下ろしたばかりなのか定かじゃないが、ちょっと見、打捨てられた土嚢みたいな有様で、しまったなあと心から思った。
小さな一人息子の帰りが遅いのをよほど心配したのだろう。
抱いてた不安のせいでくたびれ果てていた。

でも、たかだか遅れは30分じゃないか...1時間というのならわからないでもないけど、ちょっとオーバーじゃないかな。
東欧の人っていうのはラテン人なんかとは逆に、時間はきっちりと守るのが常なんだろうか?
あるいは、ひょっとするとポーランド人の30分ってのは、ぼくら日本人の30分よりずいぶんと長いのかもしれない...
いや待てよ、彼女は自分の同僚のことをあんまし信用してなかったのかな...そうだとしたら悲しいな。
いいや、違うそんなことはない、きっとただ単にトーマを溺愛しているのだ。

開いたままのドアのとこに立ってるぼくらに気がつくと、カシアは「ひょわーっ」とか「きょいーっ」とか大きな声で叫んだ。
びくっとしてたら、叫び声はそのままの音量を保ちながら何かしら意味のあるポーランド語の言葉に変化した。
そして、大股にこちらへと向かってくる彼女の口から次から次へと飛び出した。
意味不明だがおそらくは「どこ行ってたのよーっ!」とか「怪我しなかったーっ?大丈夫なのーっ?」とかそんなことだろう。

大きな声は近づいて来るにつれしだいに音量を下げ、音色はやさしくなった。
彼女は自分の息子をまるで30年ぶりに会ったかのようにひしと抱きしめると、豚まんみたいな頬をぎゅうぎゅう小さな頭におしつけた。
(トーマは黙って天井見てた)

5秒くらいそのままの姿勢...
で、その後、テーブルに置いてたバッグをがばっと掴んで肩にかけると、手を繋いでさっさと部屋を出て行った。

「あ...えーっ、もう行くのかーっ!?」
彼女は、遅れたことについて文句も言わない代わり、子守りのお礼も言わなかった。
それならまだしも、別れの挨拶さえなし。
詫びをいれようと隣で隙をうかがっている男には一切眼もくれなかった。
トーマにしたっておんなじだ、視線は母親かあるいは床、もしくは天井に向けられるだけ...
こっちをチラリとも見やしない。
アイス食った仲なのに、遊園地で肩馬した間柄なのに...そりゃあないだろう。
ふたりはまるで世界にふたりしかいないように再会し、そして立ち去った。

驚いたなあ、日本人なら、こうはせんやろう...
せめて「それじゃあ、さよなら、また明日」くらいは云うはずだ。

部屋の奥へ行き、さっきまでカシアが座っていた椅子に腰を下ろした。
ふてくされるためだ。
しばらくじっとふてくされた。
そうしてたら、まだふてくされ尽くさぬうち、なんだか知らないけどじんわりと笑みがこぼれてきた。

あれえ、何でやろう?と不思議に思った。
けれどそう思ったのは一瞬で、その微笑みは「ポーランド人って変なあーっ」という印象がもたらしたものだということに気がついた。

”変”って言ったら悪いというなら”おれらと違う”っていうのでも無論オッケーだ。

でもどこがどう違うっていうんだろう?
ええと...
ああ、そうだ、もっと野蛮なのだ。
より単純。素朴で飾り気が無い。
熱い感情が湧いて出たなら、抑えたりせずそれに身を任せてしまう。

粗野だけど卑屈なとこがぜんぜんなくて、”人間など我関せず”と山の奥に住む猿の親子みたい。

そんなことをにわかに強く感じて、なにやら心の原っぱに陽が射した(あるいは水が撒かれた)ような気分になった。
それで笑ったのだった。


さて、翌日からはまた淡々としたバイトの日々がはじまった。
仕事場以外には少なからず友人がいたし、彼らとは容易くコミュニケーションができたので、
カシアとそれ以上親密になることはなかった。
一度くらい外でお茶か食事でもと思わないでもなかったけど、結局その”洗い場”以外で顔を合わせることは無かった。

夏が終わりバイトが終了すると同時に彼女とは疎遠になった。
(結局トーマに会ったのは、遊園地に行ったその日だけ)

今頃どこでどうしているんかな...
知る由もないが、もしちゃんと生きてたら、カシアは”ばあちゃん”、トーマは”おっさん”...
そんなふうに人から呼ばれ始めてる頃だ。


(今回の曲)
Joelle Ursull 「White and Black Blues」

その夏のあいだ中ずっと、洗い場でかけてたラジオからひっきりなしに流れていた曲。
ゲンズブールがまだ生きている頃で、恋人のバンブー上半身裸で踊らせてる横でラップやったり、ヴァネッサ・パラディをプロデュースしたり、酔ってテレビ番組に出て不燃焼のストーブみたいにぷすぷす煙草吸いながら変こと口走ったりしていた。
この曲はそんな最晩年の彼がグアドループ出身の歌手(ズーク・マシーンにいた)に書いたもので、その夏以来、ウォークマンにもMDプレイヤーにもiTunesにも常に入っている。
聞く度どこにいても、身体の8分の一くらいがすうっと90年代のはじめ、夏のパリに戻る。


azisakakoji

 
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