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ふと、夏プールで思ったこと
2009年08月01日
いきなりで恐縮なのですが、一枚の絵を描くっていうのは、ぼくにとっては、一遍の小説を書くのと読むのとを同時にやってるようなもんだという気がします。なんじゃあそりゃあ?といいますと、ちょっと長くなりますが、説明してみます。
絵を描く時は、大まかなストーリィなりイメージなりはあらかじめ持って描き(書き)はじめるんですが、それ以外はその時々の気分や体調や天候にまかせっぱなしで、後でどうなるのか先が見えません。完成までの道のりをきちんと指し示した設計図があり、それに従って模型をつくっていくというのとは、おおきく異なっていて、描き進んでみなけりゃあ、どんな結末になるかはわかりません。
もちろん、真っ白いカンバスの前に立ったとたんに、色や形が身体の中から湧きあがってくるよな天才絵描きではないので、ちょっとした下描きやら、雑誌の切り抜き、写真なんかを見ながら、それをとっかかりにして描いてはいきます。けれども、それをそのまま写し取るということはなく、(やろうと思ったとしてもできやしませんけど)筆にまかせて描いてると、頭では思い描くこと、想像することのできなかった物の形や色、人物の表情なんかが、筆の先からでてきます。
そんな風にやってると、描いてる時は、初めて読む小説をを読んでるみたい。おお、そう来たかー、とか、うわ、この形、味があるよなあ、とか、ひゃあ、こいつってこういうやつだったのか、とか、何が出てくるのかはわからないので、やっててわくわくします。
要するに絵を描く時には、描く自分と、読む(描いたものを見る)自分のふたりがいます。(ところで調子がでてくるとこれに別の人間も加わります。たいていが、亡くなった親戚とか遠くに住んでる友人で、そこはちょっと違うんじゃないかいとか、おお、なかなか上手く描けてるやんとか、口をはさんだり指図したりします。)
さて、こんな具合に自分で小説を書き、書いたはなから読んでいってるような感じなのですが、自分をある程度はよく知った人間(つまり本人)が、自分ただ一人に向けて、これを楽しませようと懸命に書いた小説を読んいるようなわけで、そんな読みものがおもしろくないはずはありません。
他の人が作った小説を読んだり映画を見たり、あるいは旅行したり、おいしいもの食べたり、友人らとおしゃべりしたり、そんなことやるより、ずっとたのしいのです。だから、絵ばかり描いてます。(もちろん、これはちょっと言い過ぎで、ようするに、生活のもろもろの中で絵を描くことの優先順位がかなり高いということです)
ただ、描いててたのしいけど、読んでてつまらない時や、反対に、描くのはしんどいけど、読んでておもしろい時、はたまた、どちらも心地いい時、どっちもきつい時があります。どっちもきつい時というのは、病気だったり寝不足だったりして体調が良くないときで、精神的なものは、描く(と同時に読む)よろこびそれ自体には影響がないみたいです。悲しいときは悲しいなりの、苦しいときは苦しいなりの、描くよろこびがあるようです。
こうやって、一枚の絵が一応仕上がります。一応というのは、たいていが数日も立つと、描き直したり手を加えたくなり、そんなことやってたらいつまでも次の絵が描けないので、この絵はこれぐらいでやめとこ、ひとまず完成したことにしよう、と筆をとめるわけです。その時ちょこっとだけ、解放感みたいなものはあります。ありますが、充足感や達成感、つまり完全燃焼などにはほど遠いです。だから、すぐに次の絵にとりかからないと、身の置き場がなくて不安になります。
さて、こうやって”完成”した絵は、読み終わった本、みたいなものです。描く(読む)ことによって、よろこびを得、何か少し学び、ものの見方がちょっぴり変わり、人間的にやや深みを増した(笑)。だから今目の前にある絵(本)自体はぼくにとっては、もう用なしです。
ただ、もしかしたら、ぼくだけではなく、その他の人が読んでも、少しはおもしろいかもしれん、ためになったりするかもしれん。それに、ほかのみんなは、ぼくとは全く異なる読み方、もっと豊かで深い受け取り方をしてくれるに違いない。それを聞いてみたい。よし、せっかくだから他の人にもできるだけ多く読んでみてもらおう。
そう思って毎年、やってるのが個展の巡業です。
ときどき、読んで(絵を見て)気に入って、手元に置いときたいなあ、という人も現れます。作品を買ってくれます。ほんとうに、ありがたいです。そんな方々が何人かいてくださるので、ぼくは生計を立て、絵を描いて独り楽しむことができます。
って、たいそうなこと言いよるけど、肝心の絵はたいしたことないやん。
あうう、すみません、実はぼくもそう思います。
なので、また絵を描き続けます。