« 2009年09月 | メイン | 2009年11月 »

SWR

2009年10月20日

webwsr.jpg
 ことしも生真面目にだんだんと涼しくなって、律儀に草木が枯れ、日に焼けた肌がそっけなく褪せてきて、長崎はそわそわし始めた。10月7、8、9日と長崎くんちがあるからだ。でっかくて深い中華鍋のようなこの街全体で、無数のゴマを煎ってるみたい、パチパチシャカシャカとそこいらじゅうがざわめきはじめる。
 さて、目下の仕事場はその、おくんちの舞台である諏訪神社のとっても近くにある。この喧噪の時期、一昨年は他所に逃避した。去年は、桟敷席の券をもらい観覧した。(とってもよかったです、ありがとう)でもって、今年は、SWR状態のレベル2で行こうと思った。
 「は?なんやねん、それ?」
っていわれても、おいおい今さら困るな...
SWRとは、これを読んでる皆さん相手であれば改めて説明する必要もないことだと思うのだが、”Silent White River”の略だ。
翻訳すると、静かで白い川。つまり、白川静先生のことを表す。
 
 白川先生は、いうまでもなく漢文学、古代漢字学で高名な学者だ。
そいでもって、(”そいでもって”なんてぞんざいな物言いは、たいへんに不遜だが、ここでは読みやすさのため以後もそういう風にします)彼の良く知られた逸話に、大学紛争の頃のものがある。(S教授は白川先生)
 つまり、「S教授の研究室は立命館大学の紛争の全期間中、全学封鎖の際も、研究室のある建物の一時的封鎖の際も、それまでと全く同様、午後十一時まで煌々と電気がついていて、地味な研究に励まれ続けていた。団交ののちの疲れにも研究室にもどり、ある事件があってS教授が学生に鉄パイプで頭を殴られた翌日も、やはり研究室には夜遅くまで蛍光がともった。」(高橋和巳「わが解体」より)
 このことを知ってから、周囲が何かに浮かれてわいわい騒がしいとき、それに頓着せずに独り自分の日常を黙々と続けることを、SWRと名付け、事に際しては覚悟をきめてあたることになった。
 それで、おくんち前日に、ゴミ出し以外は家から出なくていいように3日分の食料を買いに行った。ミュズリー1袋、食パン1斤、豆乳2本、ヨーグルト500ml、キャベツ、人参、玉葱、じゃがいも、かぼちゃ、クレソン、ピーマン、里芋、ニラ、たまご、豆腐、りんご、バナナ、さんま3匹(3枚におろしてもらい、刺身と塩焼きにする)、きびなご(揚げて酢漬けだ)、鶏ミンチ200g、ワイン2本、酒一升、よもぎもち、これで3日分、計9食ばっちりだ。

 翌日早朝、「もってこーい、もってこーい!」というかけ声の中で、かぼちゃのポタージュ作ってパンつけながら食べると、濃いコーヒー飲んで仕事を始めた。それからずっと7、8、9日、笛や太鼓や銅鑼の音、威勢のいいかけ声や歓声聞きながら、10日に市民プールいくまで籠って、淡々と絵を描いていた。
 
 「そりゃあ、あんた、ちょっと変だ。おかしいぞ。第一、伝統的な祭り事を浮かれ騒ぎなんて言うのがふざけてる。それに、ふつう、ちょっくら祭のぞきに行って、出店でイカ焼きとか梅が枝餅なんか買って食べるやろう、あまのじゃくっていうか、カッコつけっていうか...気にくわんな、そういうやつは」
 たしかに、そのとおりだ。おれもそんなやつが身近にいたらちょっとやだなと思う。このように一風変わってるので、絵とかイラストだとかで身を立てざるを得ない。
 そんなSWRチック(説明はぶく)な体質はむかしからあった。皆が何かに熱中しさわいでるとすっと退いて独りになるくせがあった。大学入る頃にはさらにそれが顕著になって、オリンピックだとか、カウントダウンとか、そんな”盛り上がる”ことに背を向けるようになった。ベルギーにいた頃なんて、なかなか独りのときが多かったので、いつのまにかワールドカップが始まって終わってたり、絵を描いてて気がつくと年が明けてたりしたこともあった。
 「ほお、そうかい、あんたが、ちょとばかし隠遁者風なのはわかったが、そこで白川静の名をだすなよな」「白川さんがその生涯をなげうち研究し実証してきた事柄はいわば人類全体の宝としておれらの前にあるが、あんたが頼まれもしないのに勝手に描いた絵なんて、誰の何の役にも立ちやしないやん」「それにさ、白川さんの置かれていた状況と、おまえのをいっしょにすんなよおっ。彼が学問をするその窓の外には、戦火があり紛争があったろうが、おまえの窓に外にあんのは平成の世の、単なる浮かれ騒ぎやん」
 うう、返す言葉全くなし。たしかに、おれと白川先生では天と地の差がある、っていったら天と地が「け、おまえら二人に比べりゃ、おれら双子みたいにそっくりだぜ」と憤慨しそうなくらい、かけ離れている。
 しかし、10年ほど前、彼の「回想九十年」を読んで以来続く、さしあたっての一身上唯一の希望が「白川先生が学問を続けたように、絵を描き続ける」ということなので、ときおり彼の名を口にして、身を律するのは大切なことなのだ。

 ところで、彼の名前を初めて意識するようになったのは、まだ20代、パリから一時帰国していた時だったように思う。友人に連れられて熊本は石牟礼道子(誰だか知らない人は、自分で調べ、できるなら著書を手にとったがいいと思う)さんの、お宅におじゃました。以前何回かお会いしていたが、面と向かって話すのは初めてなので固くなってると「近頃はみなさんすっと簡単に外国に行かれますねえ」とおっしゃられた。すぐさま、「自分がフランスに行ったのは、それなりののっぴきならぬ事情がありそうしたので、観光とか語学留学あるいは自分探しの旅みたいに”簡単”に行ったわけではないのです」と言おうとした。けれども、できなかった。
 なぜなら、根の付いた故郷を棄てざるをえず、彼岸に行くようにして海を渡った「からゆきさん」や幾多の移民たちの具体を肌で知る彼女にとってみれば、ぼくの事情とて、物見遊山の観光とさして変わらぬ、同様に”簡単”なものであるだろうからだ。ただただ下を向いて恥じ入るばかりだった。しかし、友人が「彼の場合は...」とちょこっと助け舟をだしてくれので、すぐさま復活して、みなでおでんをいただいた。
 おでんをもぐもぐ食べながら、お家の中をそっと見回した。意外にも本があまりないことに驚いた。少ない中で目についたのが、ラス・カサス、高群逸枝、そして白川静だった。前二者は(社会学やってたので)読んでたが、白川さんの名はふがいなくも気にとめたことさえなかった。男?女?誰だろ?「甲骨文の世界」「字統」...うう、なんかわからんが、異様な迫力があるな...
 けど、それっきり忘れてしまった。

 数年後、福岡に住み始めイラスト仕事で生計をたてるようになった。ある日、絵地図描きの依頼があり、日田へ行った。取材を終え宿に帰る前、寝がけに何か読もうと街の小さな本屋に立ち寄った。そこで手にしたのが、中公新書「漢字百話」(日本人に生まれたのなら必読だと思う)だった。多くの人と同じく「サイ」の出現にびっくりおったまげた。頭がぐらぐらした。(知るのが遅いっ!)その後「詩経」「孔子伝」を読み、ほどなく先に述べた「回想九十年」が刊行された。
 彼の著作物は、三つの字書はいうまでもなく、みな、象みたいにどすんとでかい。しかし、それを成した人物本人は、くじらみたい、もっとでかい。その存在自体に畏れ、おののいた。

 生まれてこのかた、もっとも多く読み返したのはきっと以下の文章だ。幾分長いが、いわゆる「座右の銘」みたいなものだろう。
ぼくの千倍以上本読んでる松岡正剛も、その著書「白川静」(平凡社新書)で同様の箇所を紹介していた。呉智英が白川さんにインタビューして、その最後の質問に答えたものです。
 呉「先生は学界にあって、学閥抗争にも巻き込まれず孤高の位置にいらっしゃったと思いますが、それはなぜでしょうか。
 白川「私が学界の少数派であるという批評については、私から何も申すことはありません。多数派とか少数派とかいうのは、頭数でものを決める政党の派閥の考え方で、大臣の椅子でも争うときに言うことです。学術にはなんの関係もないことです。学界にはほとんど出ませんから、その意味でならば少数派ですが、そもそも私には派はないのです。
 詩においては「孤絶」を尊び、学問においては「孤詣独往」を尊ぶのです。孤絶、独往を少数派などというのは、文学も学術もまったく解しない人のいうことです。私の書きましたものは、ずいぶんと読みにくいものが多いのですが、それでも多数の読者を得ているのです。「棺を蓋うてのちこと定まる」という語がありますが、棺を蓋う前に、このような共感を得ていますので、私自身は、そのような言い方でお答えするとすれば、絶対多数派であると思っているのです。しかし学問の道は、あくまでも「孤詣独往」、雲山万畳の奥までも、道を極めてひとり楽しむべきものであろうと思います。」
 呉「今日はどうもありがとうございました。」

 呉さんでなくとも、白川さんの足跡を少しでも知る者であれば、この返答を耳にしたら、ただ頭を垂れ、「ありがとうございました」と礼をいうしかないだろう。
この文章の中の「学問」を、「絵」に置き換えると、すなわち、ぼくが(非常に心もとないが)目指すところの生き方となる。(すまん)
 しょんぼりしてる時に、これ読むと、暗いアトリエに光が射す。荒野に虹が燦然と輝き、枯れ木に花が咲き、実がなって、鳥がついばみ、声高く歌う、それを猫がシュタッと跳ねてとっつかまえて、のどぶえをがぶっと引きちぎって、口にくわえ、誇らしげに歩く。
 つまり読後、こうしちゃおれん、とやる気が出て、すっくと立ち上がる。

「はあ、そりゃよかったですね。でも、そんなやって描いた絵がなんで、あんな、なよなよした女の子だったり、へんてこな乗り物だったりと、しょうもないんですかー?」
そうやろー、そこがなんでかおれにもさっぱりわからん。ほんというと、鎌倉時代の仏像みたいな絵が描けりゃあ描きたいんだけど...ままならん。90くらいまで続けたらちょっとは何とかなるんやろか...
「ところで、それはさておいて、ちょっとひとつ質問いいですか?」
はい、どうぞ。
「今回のこの長ったらしい文章の最初に、”SWRのレベル2で行こう”っておっしゃってましたけど、ってことは、レベル1もあるんすよね?
レベル1と2っていったいどう違うんですか?」
ナーイスクエッショォーンッ!
レベル1は、すごいぜっ。
ゴミ出し日にさえ外へ出ません。
「そりゃ、いかんやろう」

*今回の曲
Mi and L'au「BINGO」

Cat PowerやFeist, Hope Sandovalなど、くぐもったような声で歌う人が好きでよく聴くが、最近愛聴は彼らだ。
この曲は、曲だけでなくビデオ・クリップもとても良くて、見てると「道」という漢字の字源をなんとなく思いおこさせます。
 すなわち「~古い時代には、他の氏族のいる土地は、その氏族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられていたので、異族の人の首を手に持ち、その呪力(呪いの力)で邪霊を祓い清めて進んだ。その祓い清めて進むことを導(みちびく)といい、祓い清められたところを道といい、「みち」の意味に用いる。~」(白川静「常用漢字」、「道」の解説文より抜粋。)

投稿者 TJ : 21:10

くじらとボニーとクライド

2009年10月05日

web004.jpg
 6月、よんどころない事情で実家に帰ってて何日目かの朝、新聞とりにでた庭で飼い猫よしよし撫でながら、ふと気づいたのは今日が父の誕生日だということだ。十中八九、父も母も忘れてるはず(老いるとはだいたいこんな感じだ)と思い朝食の時きりだすと、案の定「あー、そういえばそうやった」と無頓着だった。けれどもせっかく何十年ぶりかに夏休みでもないこの日に親子がそろってるので、3人で誕生会をしようということになった。「うわあ、ひさしぶりやあ」と父が喜ぶ。
 母と買い物にでかけた。街一番の洋菓子屋さんでピスタチオ味15センチのケーキを、酒屋でちょこっと高い芋焼酎を買った。さて、夕食の献立は何にしようかと相談した結果「もう長いことくじらを食べさせとらんけん、ふんぱつしてくじらにしよう」ということになった。それで、冷凍の赤身と、おばいけ(尾びれの薄切り)を買った。ベーコンはさすがに高級すぎて手が出ず、次回の祝いの席にとっておくことにした。
 くじら食べながら、いろんな話に花が咲き蝶が舞い鳥が歌った、つまり、ひどく楽しかった。ただ単に、こうやって自分の親と宴を囲むのがなんでそんなに心地いいんかいなと、不思議で仕様がなかった。こんな風な時も訪れるのであれば、年をとるのもそう悪くはない、皆に勧めようと思った。
 ふつうは9時には床に着く父が11時過ぎまで飲んでいた。遅く寝たのに、翌朝はやはり6時に起き、散歩にでかけた。散歩といっても、3キロ歩く。毎朝だ。
 そんな彼が数年前亡くなった幼なじみの秀やんの話しをしてくれた。なんでも、秀やんは80過ぎてもすごく元気で毎日野良仕事をやってたそうだ。けどある朝「じゃあ、いってくるけん」と畑に出て行ったっきりもどってこない。それで、家人がさがしにいったら、畑に行く途中の路傍にころんと倒れて死んでいた。
「秀やんみたいにすっきり逝くには、元気でおらんといかんけんね!」ということで、父は毎朝歩く。良く死ぬために歩く。こんな気の持ちようは一風変わってるが、とてもいいなあと思った。おれも見習おうと思った。
 ところで、くじらといえば、パリに暮らしてた20代の頃、フランス人に「くじらって相当うまいっちゃんねーっ」とぽろっといってしまおうもんなら、一様に目を見開いてびっくりされ「うわあ、かわいそーっ」とか「おそろしい、なんてやつだ」などとしっちゃかめっちゃか言われ野蛮人あつかいされた。あるいは、インテリムッシュには「そりゃあ食文化の違いは尊重せんといかんけど、他の動物と違って知能が高いし数が少ないので、やめたがいい」風なことを言われた。
 それで、「そーんなん、くじらだろうとあんたら好物のうさぎだろうと、ほかの生きものだろうと、いのちはいのちやろう。あんたら勝手に区別つけるんかい」「他のいのちを、うまいうまいと喰らわんことにはうまく生きれん、おれらみな悪人やろう」「そんな業を苦しく思って心のどっかでいつも頭を垂れるんが精一杯やん」「しかも、おれらちゃんと”いただきます”(あなたのいのちを頂きます)って手を合わせて食べるけど、あんたら”Bonappetit"(よい食欲を!)って叫ぶだけやん!」と、怒濤のごとくまくしたてようと思ったが、言い争っても勝ち目はないのでやめにした。なんでかというと、彼らはとにかく何にしても、自分が知らない事についてさえ、弁が立つからだ。仏語圏に計7年あまり暮らしたが、彼らの誰かと議論して「こうじ、おれの考えが間違ってた、ごめん」というようなことを言われたためしがない。しかも、おれが何かで「すまんかった」とあやまったりすると、「ほんとはそう思ってないから簡単に謝るんだろう」と咎められたりする。うひゃあ、だ。
 それで、在仏中なかなか苦労した。ということはすなわち、非常にためになった。きっぱりと歯切れはいいが、口先だけで中身のあんましない人間というものが、意外とうまく見分けられるようになった。たいてい、国や人種がどうであれ、人間の格がほんとに高い人は静かだ。けっして多くは語らず、すっと黙って行動する。
まあ、ブログなんてものはやらないないだろう。

*今回の曲
「ボニーとクライド」

年をとるのも、こんな風にだったらちょっぴりやだなと思う動物愛護運動家ブリジッド・バルドーさんが、まだ女優やってた時、当時愛人だったセルジュ・ゲンズブールと歌ってる曲です。声も姿も匂い立つよな恋する女の艶やかさ。セルジュの醸し出す色気も尋常じゃない。ふたりとも、なんちゅうかっこよさだ。でも、ブリジッド、そのベレー帽、アザラシの毛皮じゃないよな。
 

投稿者 TJ : 05:16