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奇長山

2009年11月11日

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ベルギー暮らしの後、長崎の地を新しい住処に選んだのには36個ばかり理由があった。1から5までは秘密で(ふふふ)、20以降は話してもさして面白くはない。それで今回は、その6とその11のことを書こうと思う。

まず、長崎を選んだ6番目の理由。それは、買いものをするのに心地がいい商店街(市場)がいくつかあったことだ。魚は魚屋、野菜は八百屋、金物は金物屋で買うことができる。すなわち、食べものは食べ方を、金物は使い方を、売ってる人に聞きながら買いものすることができる。「生姜の酢漬けってどうやるんだっけ?」とネットでさがせばレシピがすぐにでてくるが、八百屋のおばちゃんにそう聞くと、「にいちゃん2、3日待たんね!新生姜が出るけん」と助言される。あるいは、「こっちも食べてみんね」と自家製ラッキョウを買わされる。他の人はどうかしらないが、生姜求めて行ったのにらっきょう下げて帰宅するといような予想外の出来事は生活の中に必要だ。むろんネットサーフィンでも、当初検索したのとはまるっきり違うものにたどり着くという醍醐味はあるだろう。しかし、それはいかんせん単なる情報に過ぎない。らっきょうの匂いと味がしない。

とはいっても、会社勤めの人であったらそんな悠長な買いものの仕方は難しかろう。第一、仕事終わる頃には小さな個人商店は閉まってるし、開いてたとしてもおばちゃんの話し聞く気力なんて残ってない。何でも揃うスーパーでさっさと済ませるのが普通だ。自由業者のみ為せることで、それはなんだか申し訳ないと思う。しかしこちらとしても、毎日のんびり買いものを楽しんでるわけではない。仕事の合間、人の少ない午前中にぱぱっと梯子してささっとすませる。

さてつづいて、長崎に住みたくなった11番目の理由。それはここの街並みに惹かれたからだ。入り組んだ土地に神社や寺、洋館や老舗、古くて美しいものが比較的たくさん残っている。歩いてて気持ちがいい。しかし、とりわけ心を動かすのはそのような「名所」ではない。それは、無名の民家の数々だ。急な勾配のわずかばかりの土地にへばりついて立っている、人の住む家だ。それはまるで、断崖絶壁をよじのぼる登山家のように見える。なんでそうまでしてこんな場所に建ってるんだ、と問いかけたくなる。土地がいびつなので、それに合わせてつくられる家屋の形もへんてこ、奇妙でどれひとつ似たようなものがない。平坦な土地にすらっと居並ぶ建売り住宅とは大きく異なる。しかも年数を経たものが多い(最近ひとは”下界”のマンションを買って住む)ので、あちこち建て増しつぎはぎだらけだ。強い風で屋根が飛ぶ、激しい雨で裏の土手が崩れる、子供が成長する、じいちゃんが逝く、定年して野菜作りはじめる、その度ごとに家の造形が変わる。少々のことは専門家には頼まず住む人自らが修繕するので、ありもの利用で規格外、つたないが破天荒だ。
そのようにして手のかかった家の有様は見る人を感動させる。なぜならその形や色に、住む人の心が現れているからだ。その点において、その家はすぐれた芸術作品となんら変わることがない。
美術館に行き”絵”を見るのにはお金がいるが、散歩にはいらぬ。ちょいと坂を駆け上がりひょいと角を曲がると突然、どの画集にもサイトにも載ってない、どでかい”絵”がズババンと空中に掛かっている。最初のうちはひゃあとたまげてひっくり返り、坂を転げ落ちそうになった。しかも、よく見るならそれぞれの絵にはおのおの固有の、風変わりな額縁が周りを囲んでいる。囲んでいるというか、ぐるぐる回っている。木や金属ではない、もっと柔らかいもの。猫だ。いかした家にはいかした猫が数匹住み着いてて、その家の見栄えをさらに良くしている。

ところが非常に悲しいことに、そんなふつうの家々は保存されはしない。保存されるのは、神社仏閣や教会、貿易商や文学者、幕末志士の旧居なんかで、歴史にちょっとばかし名を残した人たちの暮らしぶりだけだ。しかし、彼らは他人。おれが知りたいのは自分と直接つながる先祖、つまりそこらにいた普通のおじちゃんおばちゃんのたちの生活だ。名もなき彼らが如何に生きていたかだ。手に触れたいのは宮大工が為す美しく反り返った梁(はり)ではなく、おっさんが100均ショップの材料駆使して補修した雨樋(あまどい)だ。

と、いきりたってみてもまあしょうがない。”昭和の懐かしい風景”とか”レトロな建築”とかいう言葉からさえこぼれ落ちてしまうようなそんな建物は、こぼれ落ちてしまうがゆえに、人のこころを惹くのだろう。保存されずただ朽ちて壊されるゆえに、とっても愛らしいのだろう。

こんな心持ちで4年前、長崎に住み始めた。そうしてまもなく、住むからにはまずこの町にあいさつ、というか仁義を切ることが大切だという気がした。覚悟を見せて了解を得なくちゃいけない。それで次の個展には、長崎の町並みを描くことにした。町並みの中、人物がひとり立っているという連作を試みることにした。日頃、人物を描くのは好きだが背景描くのはあんまり心がときめかずおっくうだったので、いやいや始めた。
谷川俊太郎さんがどこかで、詩を書く時は「”書きたい”と同時に”書く必要がある”と感じたことを書きます。どちらかひとつじゃ、いけません」という風なことを話されてたけど、そのときは、長崎の町を描く必要性がとても高かった。
「気があんまし進まんけど、あんたがそこまで言うのなら、描こうじゃないか」という感じだ。
”あんた”って誰やねん?というはなしだが、おれにもどこの誰かわからない。とにかくどっかに”あんた”がいてときどき指図する。

黙々と描いた。撮ってきた写真を見て頭の中でいろんな要素をコラージュしながらせっせと描き進めた。そうするうちあらまあなんて不思議、最初はただ面倒なだけだった背景を描くのが楽しくなってきた。無意識に背景の大半を占める家々をまるで人の顔を描くように描くようになってきたからだ。人の額(ひたい)に陰影をつけるように家の軒下に陰影をつけ、髪の毛描くように屋根瓦を描き、唇に紅色さすように郵便受けに紅色をさすようになった。
描きながら、”あんた”がおれに町を描くのを勧めたのはこういうことやったのかぁ、と納得した。
そんな絵を40枚くらい仕上げて展示した。
個展のタイトルは「長崎」という字を分解して「奇長山」だった。

当時、好きだった家のひとつが今回の冒頭に掲げた写真の家だ。あたかも生きた人間のようだった。先日行ったらきれいさっぱり取り壊され、跡地は黒いアスファルトの駐車場になっていた。まるでそこだけ小さな原子爆弾が落っこちたみたいだった。県とか市は、長崎”ゆかり”のスペインやポルトガルの現代美術の作品買うより、このような家を残すのにお金をつかってほしかった。
しかしおそらくこんなふうに思うおれのほうが変なのだろう。多くの人にすればきっとボロ家はたんなるボロ家に過ぎない。
心の中にボロ家を好むかたよりがある。そのかたよりがあるからこそ少しだけ絵を上手く描くことができるのだろう。

今回の曲
Jacques Brel 「Amsterdam」

ベルギーに移り住み最初に得たお金でジャック・ブレルの10枚組CDを買った。ビールとチョコレートとワッフルが束になっても敵いやしないシャンソン歌手、作詞作曲家、この国の宝だ。デヴィッド・ボワイやスティングはおろかニルヴァーナさえもその曲のカバーをし、セックス・ピストルズのジョン・ライドンは「ブレルはパンクだ!」と賛辞をおくった。その彼の歌の中で一番好きなのがこの「アムステルダム」だ。港町の人間臭さ、人の生が凝縮されたような町の姿をこんなにまざまざとうたった歌を他に知らない。そして歌う人間も知らない。おそらくは今後も生まれないだろう。なぜなら、彼よりも才能がある曲の作り手、偉大な歌手は今後いくらでも現れようが、歌うべき「港町」は無くなってしまってるからだ。港町がなくなり、シーサイド何とかやベイプレイス何とかになるのはかまわんが、このような歌が生まれない世の中というのは困る。シーサイドをうたう歌では人の心はあんまし動かず、心震わせる歌がその時々にないと人は生きづらい。
しかし、それにしてもこのブレルの凄みはいったい何だろうか。まるでムルナウの吸血鬼ノスフェラトゥが港町のあばずれの血を吸って生き返り熱唱してるみたい。

投稿者 TJ : 21:12

無礼無花果

2009年11月01日

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「おおい、そこの坊主頭ぁ」
いつもの商店街を歩いてると、どこからか呼びかける者がいる。振り返ったがそれらしき人物は誰もいない。ふたたび歩き始めた。
「そこのぉ、変な赤いズボンの男おぉ」
と、またしわがれた声がする。坊主頭も変な赤いズボンもたしかにおれのことだが、いったいだれだ?
今度は、視界に入るやつは何一つ見逃すものかと、可愛い飼猫に巣食う虱をさがす真剣さで目をこらした。

見つけた。
おれを呼ぶのはてっきり1人だと思っていたが、それは10人、というか10個だった。
5個入りのイチジクが2パック。

お「なんだよ、イチジク」
イ「買えよ」
お「やだよ」
イ「買えよ。2パックで350円だぞ」
お「10個も独りじゃ食べきれんだろう」
イ「買えよ。残ったらジャムにしろよ」
お「やだよ。最近、おれパン食べんもん」
イ「ソース作れよ。豚や羊によく合うぜ」
お「やだよ」
イ「むかしからイチジク好きだろ。買えよ」
お「おまえら、人に頼みごとしてんのに、その命令口調の話し方が気にくわん」
イ「買って下さい」
お「よし。わかった」

文章にすると長いが、この間、わずか0コンマ8秒。
靴やカバンを買うのは遅いが、野菜やくだものを買うのは早い。
ここらあたりじゃ名が通っていて「マッハK」あるいは「ジェットK」(Kはコウジの略)と呼ぶものもいる。

じゃがいも、いんげん、羊肉に赤ブルゴーニュを買い足して、家路へと向かう。
神社の長い階段登ってると、買いもの袋の中で赤紫色のでかいラッキョウみたいなやつらが浮かれ、ざわざわしている。
さわがしいので、おれとイチジク族が最初に出逢った時のはなしをしてやることにした。

じいちゃんの家の裏庭にかつて小さなイチジクの木があった。思い起こせばものすごく幼い頃だ。まだ、漢字で無花果と書くということを知らないどころか、自分の名でさえ漢字で書けぬ、いや、それは、文字さえ書けない遠いむかしのことだった。
だから、このくだものはあっぱれ、おれの人生で最初に登場したくだものだ。ということはそれ以後の記憶や思い出は全部、この果実の香りをしとねとして積み重なっているということになる。したがって、おれがイチジクが好きなのは当然だし、たとえば、パリでガイドのバイトをやってた時、観光客案内して入った百貨店で、衝動的にdiptyque(めっぽう高価な香り付きローソク)のいちじくの匂いを買ってしまったのも、無理からぬことだ。

さて、そこは裏庭といっても、庭というにはあまりに貧相な、母屋と納屋、そのとなりの風呂小屋をつなぐ数平方メートルの空き地だった。しかしどうしたものか、なかなかいい「気」が漂っていた。そこにいると子供のおれは落ち着いた。後年、沖縄は久高島に行き初めて御嶽(うたき)を見た時、なぜだかこの庭のことを思い出した。
風呂は、むかしのこととて、薪や石炭をくべて沸かす五右衛門風呂だった。風呂小屋のとなりを水路が通り、湧き水が流れていた。秋になると、ひんやり冷たいその流れにイチジクの実をもいでつけておき、夕方、風呂に入る時、熱い湯船の中で皮ごと食べた。食べたというより、親か祖父母かに食べさせられた。
夕陽、湯けむり、膝の上、いちじく。一分の隙もなく完璧だ。もしも、ことばをうまく操れたのなら「世界よ申し分なし!」と言ったことだろう。だけどできなかったのでキャキャキャと笑い、傍らの人間を和ませた。
五右衛門風呂もイチジクの木も、じいちゃんもばあちゃんも、もうこの世にはない。というか、今日、市場でイチジクたちに話しかけられるまで、もうずいぶん長い間、それらのことを思い出したことさえなかった。じいちゃん、ばあちゃん、すまん。今度、仏壇に線香あげに行くけん。

イ「おお、なかなかいいはなしやった。それにしても、おまえのじいちゃんちのイチジクは幸せもんや。さぞかし、気持ちがよかったやろう」「冷たい湧き水というのは難しいだろうが、おまえ今晩は冷蔵庫でいいからおれらをしっかり冷やせよ。そして風呂に入った時食べろよ」
お「むう、だから、その命令口調はやめろっつの...」
イ「冷やして風呂で食べてください」
お「いいぜっ!」


今回の曲
We Were Promised Jetpack「 Quiet Little Voices」

グラスゴーの4人組。礼儀正しい感じがとてもして、いっしょにピクニックとかに行きたい気持ちになる。
「 Quiet Little Voices!」と叫びまくるのも、よし。

*お知らせです
けっこうたくさんの作品を載せていただいた小さな本が出版されます。予約すると、デジムナー(デジタル棟方志功の略)シリーズを手ぬぐいにしたものがオマケでついてきます。意外と買って損はないと思います。じゃなくて、できれば、買ってください。お願いします。
詳しくは以下!
http://f-d.cc/books/tenranvol1.php

投稿者 TJ : 17:52