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インディア・ソング

2011年10月18日

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5年くらい前のこと、パリはサン・マルタン運河、北ホテルのはす向かいにある本屋さん付属のギャラリー(みたいなとこ)で個展をした。
30枚弱展示して7枚が売れた。買った人のほとんどが通りすがりの人だった。
けっして安い買い物というわけでないのに、展示場所がどこであろうが、知らぬ名前だろうが、気に入った作品は買い求める、っていうパリジャンのあり方にちょっと驚いた。
(一枚でも引き取り手が現れりゃあ幸いだと思ってた)

残った絵は、たたみ3分の2畳くらいある四角い布カバンに詰め込んで日本へ持ってかえることにした。
飛び立つ前日、レピュブリック広場の裏手の小さな安ホテルのベッドの上、四苦八苦してどうにか荷造りを終えた。

翌朝、パリとは思えないほど異様に蒸し暑い中、ゴロゴロでかい荷物を引いて駅へと向かって歩きはじめた。
すると間もなく雷鳴とどろき、すごい勢いで雨が降ってきた。
それで電車をあきらめ、仕方なく空港までタクシーで行くことにした。

パリでタクシーをひろうのは難しい。
雨ならなおさらだ。
身体をはってでも止めてやるぜと覚悟を決めた。

が、手をあげてると、ほどなくするするっと一台やってきてとまってくれた。
なんという幸い。
降りてきてトランク開けてくれた車の運転手は短パンに草履、野球帽を斜にかぶった小さな男だった。
同じ顔つきと肌の色、東洋人だ。

どしゃぶりが呼び寄せたのだろうか... 
豪雨が町並みを消し去った車の中、バタバタと激しく屋根を打つ音を聞いてると、サイゴンかどっかで人力車に乗ってるような気がした。

走り出してすぐに、強くなまったフランス語が前方から聞こえてきた。
この湿り気に似つかわしい、インドシナ半島らへんのなまりだ。
彼はヴェトナム人だった...  

パリへは知人を頼って十年前に来たらしい。
半年経ったころ同胞の集まりでラオスの娘と出会い、3カ月後には結婚した。
着いてしばらくはフランス語もままならず、さりとて語学学校へ行く余裕もなく、とても苦労したそうだ。

中華料理店で働きながらタクシー運転手をめざしたが、教官が何をいってるのかわからない上、無数にある通りの名を覚えきれず、何回も試験に落っこちた。

それでもやっとこさ受かり、仕事をはじめたけど、最初の3年くらいは道を聞き違えたり迷ったりと苦い経験がつづいた。

ぼくが同じアジアの人間だということだったのであろうが、彼のおしゃべりの主題はずっと、「フランス人はバカだ」というものだった。

よほど日々、腹に据えかねることがあるのだろう、空港に着くまでの一時間あまり、これ幸いと一方的にまくしたてた。
こちらはこちらで、程度の差あれ似たような印象もってたので、「うん、うん、そうそう、その通り!」と、相づちを打ちつづけた。

曰く、
あいつらはろくに身体動かさず口先ばかり達者なだけでたくさん稼いでる。
外見だけで人を判断するんで、短パンはいたアジア人なんて犬っころ同様の扱いだ。
道徳ってものがまったくなくって、小学生でタバコを吸い、人前で抱き合い、親を全然大切にしない。
慎み深さが皆無で、自己主張ばかり、常に自分が大将だ。

しかし、おれたちアジアの人間は違う。
慎み深く勤勉で親孝行、人間の本質を見る目をもっている。

実際彼は、仕事以外、フランス人と接することはほとんどないようだった。
家では母国語で会話し、友人もみな同郷のものたちだ。
「もし、自分の国で仕事があり、家族を養って生きていけるのであれば、こんなとこにいる必要などこれっぽっちもないのだが」としみじみ言った。  

どしゃぶりの高速道路。時に身振り手振り、時にふり返りながら話すので、ひじょうに危なっかしかった。
幾度もひやっとした。
けれどそのスピードと大声とはうらはらに、車内は奇妙な親密さで満たされていて、「いっしょに死ぬ相手としては、そう悪いほうではないよなあ」などと思ったりした。

そうこうしていると空港が見えてきた。
すると最後、ふと我に返るように彼がぽつんとつぶやいた。

「でもフランスは何だかんだいっても大したものだ...だって外国人に仕事を与えてくれる。」
「おれたち望んでも、日本では働けないもの...」

Jeanne Moreau 「India Song」

azisakakoji

 
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