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なまり

2012年03月06日

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先日、詩を書いてる友人が「これいいよーっ」と、気仙地方の言葉に翻訳された聖書とその朗読CDのことを話してくれた。
彼女が最初取り寄せようとして気仙沼の出版元に電話すると、「津波に浸かって外箱がぼろぼろですけどいいですか?」って言われたそうだ。

届いてみるとたしかにそうで、九州に暮らす彼女にとってはそれがはじめて、この震災の唯一具体的な手触りだった。

朗読は、こんな感じだ。
山浦玄嗣「放蕩息子のはなし」

で、これを聞いてたら、自分のばあちゃんのこと思い出した。

ある年のお盆のときのこと、親戚が集まり座卓を囲んで飲み食いをしていた。
座卓は人の数に比べて少なく、けっこうぎゅぎゅうだった。

飲んでると、上座に座ってたばあちゃんがふいに皆に向かって言った。
「切なっかろう,,,すまんなぁ...」

「は?」
「ばあちゃん、何のこと言ってんだろう?」ときょとんとしてしまった。
「何年もむかしに逝っちゃったじいちゃんのこと思い出してるのかな...」
すると隣に座ってた母が、ここら辺りでは人の距離でも心でも、”ぎゅうっと締めつけられる”ような状態はすべからく「切ない」というのだと説明してくれた。
例えば「このセーター、洗って縮んで首のとこが切なくなった」とか「電車が混んでて切ない」っていうふうに使うのだそうだ。

そうはいっても、こんな美しい言い回し、母の口から聞いたことはない。
母は理解はできるが自ら使うことはない。

この「切ない」は祖母の世代までで終わってしまった。

祖母の「切なっかろう」は標準語の「窮屈でしょう」とも英語の「small」とも違う。
その言葉には彼女自らの生活が反映されていて、耳にすると、言葉とともに彼女固有の生命の調べみたいなものも聞こえる。

このばあちゃんは随分前に亡くなった。
学生だったぼくは、英語なんて勉強する暇あったらばあちゃんに、彼女の身に付いたその言葉(己が祖先の話し言葉)を習うべきだったと今はつくづく思う。
それ習ったとて、生きてく上でとりたてて役に立つわけではむろんない。
しかし、生きることそれ自体の養分、肥やしみたいなものになったように思える。

そりゃあ、今の世の中、英語うまく話せた方が得で、右から左へもの動かすには便利だ。
けど、その動かす”もの”を生み出すのには、あるいは、生き生きと動くその力を養うには、その人固有の「訛り」みたいなもんがとっても大切なような気がする。

「って、なんばそがん偉そうに言いよっと、そりゃあ、あんたが英語へたっぴいで、そん上、絵描きとか変なか仕事ばしよるけんたいね!」
「まあ、そりゃ、そうばってんさ...」


azisakakoji

 
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