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靴みがき
2012年05月23日
フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキがフランスで撮った「ル・アーヴルの靴みがき」という映画を見に行った。
客席で見ていたら、スクリーンの中の人物がやおらこちらの方を振り向き、名指しで「こうじ、ぼさっと見とらんで、こっちへ来て俺らに手を貸せよ」と言い出しそうだった。
そう云われても驚かないし、ごく自然に「おお、すまん、すぐ行く!」と答えて立ち上がってしまいそうな感じだった。
つまり、それほどまでに登場人物が、”まるで目の前に実際にいる”かのように活動していたのだ。
映画の中、隣人の行動をはす向かいのちょっぴり高い場所から監視する男(ジャン=ピエール・レオ!)が登場するけど、まさしく彼になって、現実に目と鼻の先で繰り広げられる事の成り行きをじっと見ているかのような気分だった。
こんな風に、登場人物のそれぞれに確固とした存在感がある新作映画っていうのはほんとうにひさしぶりだ。
なにしろ”顔”がいい。
俳優然とした、チンケで、作ったような、そんな薄っぺらな顔なんてのがひとつも出てこない。
靴磨きはまぎれもなく靴磨きの顔だし、食料品店のおやじはほんとうにそれが生業みたいだ。
人間だけではない、犬も車も黄色い花も赤い花も、ブリキ缶もブラシもオリーブも、出てくる”もの”すべてがみなすばらしい顔つきで、生き生きとしている。
それぞれが「さあ見てくれ、おれはここにいるぞ、存在しているぞ」と云っている。
このようなものたちが、無駄なくさっさと会話し行動する。
「説明するのは下衆だ」とは小津安二郎のことばだが、カウリスマキは敬愛するこの先達にしっかりと従っている。
映画の中で重要な、ヒロインが死に至るであろう病気の名前さえ明かされないし、ひとが自分の行動の動機を語る場面なんてものもいっさいない。
話しに”隙間”がたくさんあるので、観客はその隙間を埋めるべく自分で勝手に想像するしかない。
したがって、見る人によってはそれが下町の人情ドラマになるだろうし、あるいは移民の問題を扱うよりシリアスなものにも、または夫婦の絆を謳う恋愛映画にもなる。
つまり、「あんたは自分で立派に料理ができる。おれはできるだけ新鮮でいきいきとした素材を差し出すだけだ。」という風に料理人(観客)を信頼してくれているのが心地いい。
「おれがうまい料理作るから(事細かに説明してあげるから)、おまえはただだまって食べれてれば(見てれば)いい」っていう映画がいっぱいあるけれど、そんな映画見てもたいていはうまくないし、よしんば良かったとしても、腹(心)はいちおうその時だけ満たされはするが、心それ自体がなにがしか変化するということはない。
映画館を出たならば、世界がほんの少し違って見える、というような作品はめったにない。
ともかくこの映画、登場人物の気持ちや思いを語る場面なんてのがないので、ひとびとの心は、すべて個々の具体的な行動によってあらわされる。
事に当たってあれこれと思い悩んだりせず、何かあったら即座にそれに応じる。
電光石火の行動だ。
しかもその行動が、規則だとか思想だとか右とか左とか、そんな他所から当てがわれたようなものに、まったくもって従っていない。
従うといえばただ、ことばになる以前の自分の感覚だけだ。
人が決めた法の番人である警察官でさえが、逮捕すべき少年のその”顔”、つまりその存在に向き合ったとたん、彼を見逃すことを誰にも何にも拠らず自らの意思(というか直感)で決める。
登場人物の中、具体的なものごとでなく、思想のようなものを語るのはただ、靴を磨いてもらっている教会の神父たちだけだ。
ルカだとかマタイだとか神様についてあれやこれや話すその神父らは、天上は見ているが靴磨きのように足下は見てはいない。
靴を磨き、パンを売り、魚を獲り、日常のどうでもいい四方山話を飲んで話す巷の連中、低俗な彼らの方が、神父たちより神々しく見える。
その最たるものが、遠い北の国出身の靴磨きの妻で、そのたたずまいはまるで聖母マリアか観音様のごとくだ。
たどたどしいフランス語で紡ぐそのことばひとつひとつが、単純で確かで、まるで天上からこぼれてくるみたい。信じるに値する。
さて、ベルギー住んでた頃、フランス語の語学学校で教師をしている友人がいた。
長年、いろんな国の人に関わってる彼女に聞いて「ほお」と思ったのは、「日本人とフィンランド人は、性質が良く似ている」というものだった。
礼儀ただしさや謙虚で控えめなところなんかが共通していて、たとえば授業中(まあもちろん個人差ってものはあるけど)、他の国のひとが先を争うようにして意見や質問をなげかける時も、なぜかこのふたつの国の人は静かに黙ってるそうである。
あるいは、自国のものをなにかプレゼントする際にしたって、他が「これ、すごくうまいんすよー!」というところを「つまらないものですけど...」といった風に差し出すのだそうだ。
でもって、こんな共通性はどこから来るのかといえば、彼女の分析によるとそれは、郷土の地形が為せる業なのだそうだ。
つまり、日本は海、フィンランドは無数の湖に陸地が制限され、どちらも”水際”に暮らさざるを得ず、それが国民性みたいなものに強く影響を与えているに違いないという。
本当のとこはどうなのかわからないけど、それはさておき、フィンランド人である監督が撮ったこの映画に登場するフランス北部の港町の人間は、フランス人っていうよりか、むかしの日本人(映画や書物でしか会ったことないけど...)みたいだった。
だって不治の病を告げられた時、フランス女だったら「何とかしなさいよあんた!」って、医者につかみかかるだろうし、あるいは旦那の胸に大げさに泣き崩れるだろう。(まあもちろん個人差ってものはあるだろうけど)
しかし、この映画のヒロインは感情を表に出すことをせず「そうですか...主人には告げないでください」と云うのみだ。
そんな、己が運命を淡々と黙って受け入れるという振るまい方が、とても”日本的”に感じられた。
カズオ・イシグロが慈しみ、その小説で好んで描くところの人物の有様を思い出させるようだった。
さて、この映画の中、もっとも好きな場面は、黒人の少年が靴磨きの男から言付かったワンピースをその病床にある婦人に届けるところだ。
少年は初対面の婦人に、背筋をしゃんと伸ばし、相手の顔をまっすぐに見、礼儀正しくきちんとあいさつをする。
婦人は、「なんであんたが彼の代わりに?」「あなたはだれ?」「どっから来たの?」などと聞いたりしない。
「ボンジュール、マダム」と告げるその告げ方で、この少年の人物、器量がわかったからだ。
あれこれと素性を聞く必要などない、あいさつを交わすだけで充分なのだ。
身なりや肌の色や年齢、ましてや肩書きなどは、人を信頼するうえでほとんど役に立たない。
見るべきは、その人のたたずまい、”顔”だ、とうことをこの二人(そしてその他の登場人物たち)が教えているかのようだった。
そう、まるで黒人の少年が渡世人の高倉健で、病床の婦人がそれが初対面のいっぱしの親分、嵐寛寿郎みたい。
任侠映画のような、とてもきっぱりとした場面で、見てる自分の背筋もしゃきんととなった。
しかし、それにしても、最近見た映画でもっとも”日本的”なものが、フィンランド人の手によるフランス映画だとは...
”日本的”な日本映画とる日本人って今いないんかなあ...