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マンガ傑作選その41

2013年01月27日

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十数年前、熊本へ個展か何かしに行って、空いた時間にアーケードぷらぷらしてるときのこと。
いっしょに歩いてた友人がいきなり「あーっ!」と大声をあげた。
自販機の影にかわいい子猫でも見つけたんかいなと思って指差す方を見たら違ってて、そこには畳み縦に半分切ったくらいの看板がかかっていた。
着物屋さんのもので、和服を着た人物のイラストが描かれている。

「ねえ、ねえ、これ、こーちゃんの絵の、パクりやーん!」

ぱっと見たとき、「あ、自分の絵だ」と思ったけど、そんな仕事やった憶えないし、だいいち線や色や顔つきが微妙に異なっている。
縁日とか駄菓子屋さんでアニメや特撮ヒーローものの”バッタもん”をときどき目にすることがあるけど、なんかそんな感じで、一見同じように見えるんだけど妙に”安っぽい”。(べつに自分の絵が”高価”っていう意味じゃないっすよっ)
おそらくは当時、熊本のタウン誌の表紙を描く仕事やってたのでその影響だろう。

「ちょっと、これ盗作やけん、文句言いにいかんといけんよーっ!」
「え?」
「だって、あんたの絵、まねしとるやろー、そういうとこ、キッチリいっとかんと!」
「...」
「あのさあ、ほんとやったら、こーちゃんにお金払って描いてもらわんといかんのに、この人たちずるしとるっちゃけんね、それはいけんことやろう?」

と、言われても、困ってしまった。
なぜならその絵を見て感じたのは
「一生懸命にまねしたんだなあ、けなげだなあ」とか、「コピーしてくれて、ありがたいことだなあ」とか「ああ、おれもやっと人様にまねをしてもらうようになったか...」とかいった具合、どちらかというと心がほっこりするような気分だったからだ。

友達にそう告げると、「ふーん、そんなもんなん、あたし絵描かんけん、ようわからんっ」
といってすたすた歩き出した。


さて、「許可なく無断転載、複製を禁ず」だとか「ⓒアジサカコウジ」とかいったものを描いた絵の横っちょとかに付けられてしまうことがある。
気がついた時にははずしてもらう。
イラストやりはじめたときからずっとそうだ。

「はあ、アジサカさんはコピーライトについて独自の考えをもってらっしゃるんですね...」
と、いわれたりするけど、そんなたいそうなことは考えたことない。

「孔子だって”述べて作らず”って言ってるのに私ごときが..」.というのでもない。

ただ何となくやな感じがするからだ。
谷川俊太郎風にいうと”さわがしい”気分がするからだ。

それに他の人はどんなだかわかんないけど、絵なんてどっかからやってきて自分の身体通って手の先から出て、またどっかへ飛んで行くようなもんだ。
決して自分の中から生まれたようなものではない。
そんなものを、"おれ独自のものだ”と強くいうのはなんとなくお天道様に対して気が引けるし、それにもし”守る”としたらそんなふうに出て来た絵それ自体ではなくて、絵がひゅーっと通過しやすいような”身体の中のトンネル”の方だろうという気がする。

トンネル(でも筒でも管でもいいんだけど)が丈夫ででかければ、いくらでも絵はやってくる。(いい悪いはさておき)
”オリジナリティ”とかにこだわったり主張したりしてると、このトンネルが弱くて細くなってしまうような気がする。

身体=心=トンネルを、絵がゴーゴー音たてて流れて行くときの気分っていったらそりゃあ心地いいものだ。
「意識」ってもんがほとんどないので、まるで神様や霊魂に従う古代人か、それ以前の洞窟に絵描いてる原始人になったみたい。
お猿さんにきわめて近い(笑)

できることなら死ぬまでずっとそれを楽しみたいと思う。

モーツァルトだとかピカソだとか手塚治虫なんていう天才だったらば、さして苦もなく最初っから最後までずっと巨大で頑丈なトンネルを持つことできるだろう。
けれども、そうではない普通の人はトンネルを末永くいい状態にしておくようにはけっこう努力しなければならない。

一番大切なのは毎日トンネルを使うこと、つまり日々、絵を描くことだ。
その他、規則正しい生活をするとか、体力をつけるとか、偉そうにしないとか、必要以上に表にでないとか...

そんなことに気をつけていないと、普通の人のトンネルはすぐにか細くなっていってしまう。
そうしてそれに見合った”か細い絵”しか通らなくなってしまう。

azisakakoji

 
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