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ミミ子

2014年10月26日

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あら、これ、コーヒーではないのよ。
あたしの生まれ故郷、ヨカレナ王朝にむかしから伝わる飲みもので、
ヨンピーっていう果実を百年寝かせて作ったお酒なの。
そうよ、お酒...だからわたし少し酔ってるのよ。
酔ってるから、ほっぺた紅いの、正直になってるの。

正直になってるから、ほんとうのこと言うわね。
ほんとうのこと言うと、あなたのこと、わたし、あんまし好きではないの。
だって、髪がちっとも手入れしてなくてボサボサでもじゃもじゃじゃない。
そりゃあ、油でべっとり撫で付けたようなのよりかは千倍もましだけど、ボサボサすぎてあなたのかわいらしい耳も目も隠れちゃってるもの、隠れちゃってて、ぜんぜん見えやしないんだもの...

わたしがあなたの耳や目を見るためには、風がピュウって吹いて、そのわさわさした髪を巻き上げてくれるのを辛抱強く待ってるか、そうでなきゃ、自分のこの手でそのわさわさっ毛を払いのけるしかないじゃない...

ああ、こんな風に話してる間にもあんたのかわいらしい耳と目が見たくなってきちゃった。
どれどれ...
あ、逃げないでよ..じっとしてて....
あいやーっ!

耳がない!
あんたいつから耳がないのよ!
あはん、だからわたしが言ってることがちっともわかんなかったのね?
「ボサボサ髪を早く切ってよ」っていつもお願いしてたの、聞こえなかったのね...

それとも、なぁに、あなたお坊さん?
耳にお経を書き忘れちゃって、平家の怨霊から引きちぎられてしまっちゃったお坊さん?
そうかあ、お坊さんだったのかあ...
あ、でもお坊さんだったら、なんで頭を丸めてないのよ、坊主頭じゃないのよ?
どうしてボサボサでわさわさでもじゃもじゃなのよ?
まったく、変な人ねえ、あんたって...

まあ、いいわ、ところであんた知ってる?ゴッホっていう絵描き。
あたま変になっちゃって、片耳、ナイフで切り落としちゃったオランダ人。
とっても味わい深い、いい絵を描くのよ。
ゴッホは片耳だけど、あんたは両耳ないから、彼の2倍はいい絵が描けるはずね。

そうだ、だから、あなた絵描きさんにおなりなさいよ!
きっとうまくいくわ!
...って大きなお世話ね...
だってあなたはちゃんと自分の仕事を持ってるものね...

ああ、でも絵描きにならないのだったら、あんた、耳があったほうがいいわ。
あるほうが便利よね!
ちょうど良かった!
わたしが今、店番してるこの店、耳屋さんなの。

そのかわいらしい目でいつもわたしを見つめてくれてたお礼に、ひとつプレゼントしてあげるわ。
うふ、あたしずっと前から気付いてたんだ、
あんたがわたしのこと遠くの方からずっと見てたの...

まあ、それはさておき、とにかくおはいんなさいよ、親方を紹介してあげる。
耳職人としちゃあ、西国一の腕前よ!

と、ヨンピー片手に言ってるミミ子さんが今回登場です。

(今日の曲)
坊さんの話しが出たついでに、海童道祖の登場だ。
この人の尺八がすごいっちゃんねー!

「ってもさあ、尺八って...あたしあんまし馴染みがないけん、ようわからん...」

うん、まあ、そう君が言うのもしかたがない。
街でイヤホンして音楽聞いてる人に片っ端から声かけても、尺八聞いてるってのはおそらく百に一人もいそうにないもん。
と、いうわけで、まずは、尺八ってどんな楽器?ってちょっぴり知ってもらうために、いかした三人組に登場してもらおう。

武満徹と松岡正剛に杉浦直樹、じゃなかった杉浦康平の三人組だ。
むかし「遊」っていうなかなかいかした雑誌があって、そこに載ってた対談の一部です。

(松岡+杉浦)ーー分化されてゆく音というか音楽というのはつまらないですね。創世記ふうには「はじめに光ありき」だけれど、「はじめにあった音」とは何かということを考えてゆくことの中にしか、これからの音楽の可能性を見出すことはできないようにおもいますね。それは、もっと多様な方法を使って、物理学や人間生理のすべてを動員して考えるべきですよ。そこに音楽がある。自然との関わりを無視して音を問題にするわけにはいきませんね。
                
(武満)ーー自然と人間を分けて考えること自体がおかしいんですよね。もともと音楽は自然から学んだというか、ひきうつしたものですから、やはりいったん自然に帰してやらなきやいけない。僕はバリ島で真ッ暗闇の中で行なわれている影絵とその音楽を聞いたことがあるんですが、その土地の人にとっては、まず暗がりでも影絵ができるという自然に対する同化作用と、それから伴奏の音楽は演じられているものを天に帰してやるためのものだという気持が、ふたつながら一緒になっているんですね。

(松岡+杉浦)ーーそれはおもしろい。エスキモーなどもふくろうのように体をふくらませて声を出しますね。あれなんかも自然に同化しているんでしょうね。

(武満)ーーそれは大事なことですよ。単一の音を狙っていたんではそういう発想にはなれませんね。僕の場合も、いったん譜面になった音楽をどんどん重ねてしまうことによって、遂に自然との同質性に近づこうとする方法を探っているんです。そういう音楽はほとんど演奏されませんが、しかし自分自身にはそれによって創造している状態が少しずつ生々としてくるわけです。

(松岡+杉浦)ーーそういうナチュラリティを志向している形式はないんですかねえ。楽器にはありますか。

(武満)ーー尺八ですね。東西を通じても尺八くらいのものでしょう。

(松岡+杉浦)ーーほう!

(武満)ーー日本の尺八は五ッの穴があって、実はその音階自体は底抜けに明るいものなんですが、それを指の微妙な押え方によって、音を殺すというか、つまり最も鳴りにくい状態にして吹くわけですね。こんな不思議な楽器は世界のどこにもありませんよ。しかもどういう音を出すべきかというと、「朽ちた竹藪に風が吹いていればよろし」というような音をめざす。つまり、つまみ出せるような音ではなくて、もっと微細な、一ッの音がその音自身の中で他の音に触れるようにするわけですね。だから普化宗などの訓練では朝の四時頃から起きて、最初に尺八を口にあてた時の最初の音だけを、一日中吹くわけです。しかも、なるべく長く吹く。海童道祖(わたつみどうそ)老師は一つの音をまったく切らないまま無限に吹けますよ。おまけに尺八はもともとは吹奏楽器ではなくて打楽器に近いイメージだと考えられていたんですね。音を打っているんですね。
 もう一つ尺八が不思議なのは、琵琶などでよくいうんですが、さわりという問題があるんですよ。一ッの音がその中で他の音にさわるわけですね。さわりというのは他流派の音を取る、さわる、ということから出たらしいんだけど、本当は雅楽の笙の舌の部分のことを意味しているらしいですね。

(松岡+杉浦)ーー舌というのは鈴とか銅鐸の中にぶらさがっているあの舌と同じですか。

(武満)ーーそうです。だいたい尺八は鈴との縁が深いんです。海童道祖の道曲に「霊慕」という曲がありますが、霊という字は本当は鈴だというんですね。鈴慕ですね。

(松岡+杉浦)ーーそれはおもしろい。鈴というのは銅鐸すなわちサナギの後身で、サナギという語には真空にさわるといった意味があるんです。鈴のことも古代語ではサナギといいますし、サナギは魂を振るための呪力をもった楽器だったんですよね。その音を尺八が慕うとすれば、これは深遠な音をさぐろうとするのは当然ですね。

(武満)ーーたしかに尺八にはそのくらいの謎の深さがありますね。ジョン・ケージは「尺八は竹の根かたを吹く、と言っているからすばらしい」なんていいますが、彼の場合は尺八の本質は全くわかっていなくて、その証拠には舞台上に電気釜をおいてその中でお米がクチュクチュ煮える音をスピーカーで拡大してみたりする。それが尺八の真髄と近いんだと思い込んでいる。これは僕から言えば古いロマンチシズムにすぎないとおもうんですよ。尺八の人たちはそんなことを言っているんではない。

(松岡+杉浦)ーーやっぱり自然に対する接し方が違っちゃってるんですよ。ヨーロッパにはわからないことですよ。

(武満)ーーインドまででしょうね。

(「遊」1973年 特別号・6)

と、いう感じです。
さすがのお三方、内容、深っ...
ということで、それはさておき、上の対談にも登場した禅の坊さん、海童道祖老師、なんだか良さそうでしょ?
なんてったって、物干竿とかそこらへんに捨てられてた竹を適当な長さに斬って、適当に穴空けて吹いてたってんだから、すごいぞ。
しかも楽器職人とかが作ったら、芸術の目的が不明確になるってんで、それをその辺の子供にやらせてたんだからびっくりだ。
で、そんな何の調整もしてない、ただの竹筒から出る演奏ってのが、聞いてて、うううう...ひょええーーっ、ってなるのさ、フェノロサ、岡倉天心。

ちなみに、タルコフスキーの映画「サクリファイス」のラスト近く、主人公が家に火をはなった後に聞くのも彼、海童道祖のレコードだ。

海童道祖「霊慕」

azisakakoji

 
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