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お知らせ

2011年10月26日

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今暮らしてる福岡市は東区の箱崎で現代音楽の催し物があります。
今回は二回めでエリック・サティの特集です。
ご都合よければ皆さんぜひいらしてください。
詳しくは以下のサイトをごらんください。

第二回筥崎千年現代音楽祭

サティといえば、6年前、福岡は天神のイタリア会館で個展をやった時のことを思い出す。
そのとき会場でずっとかけてたのが、現代版サティなんていわれたりするゴンザレスのCDだった。
名前も容姿も全然似てないんだけど...

Gonzales 「Gogol」

投稿者 azisaka : 12:30

野球と水泳

2011年10月22日

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今回、ちょっと身上話ですみません。
 
幼い頃から祭り事が苦手で、文化祭や運動会が近づくと暗澹となった。
カウントダウンなどのイヴェントの類いも可能な限り避けつづけた。
ものづくりもスポーツも好きだが、みんなでやるとなると、とたんに楽しめなくなるのだ。
他人と同調したいという気持ちは人一倍強いと思うのだが、いざ隣の人間が自分ととおんなじ身振り手振りをしてるとなると、身体がそうするのを拒もうとする。

高校生になったとき、中学まで(皆がやるので)しぶしぶぎくしゃくやっていたソフトボールとおさらばして、部員わずかな水泳部に入った。
独りばしゃんと飛び込んで自由気ままにスイスイ泳ぐのがほんとうに気持ちよかった。

さて、数年前まだ長崎に住んでた時分のはなしだ。
友人に会うためひさしぶりに福岡へ行った。

日曜の天神(福岡の繁華街)は、まるでお祭りみたいな人混みだった。
やっとこさ約束場所に着いて、ほっと一息ついてると、携帯が鳴った。
友人、急用で2時間ほど遅れるという。
な、なんてこったい...

私事で恐縮だが、こんな風に少々まとまった時間が空いたら、どこであろうと迷わずプールへ行くことにしている。
それでたいてい遠出するときには、携帯の電話は忘れても水泳道具一式は携帯している。
東京でもパリでもバリでもウランバートルでもそうしてる。
(ウランバートルにはいったことないけど)
が、うかつにも今日に限って持って来てない。
それで、一式、新たに購入することにした。
知り合いが、天神の地下街に水泳用具の専門店ができたと言っていたのを思い出した。
案内板を頼りに、その店へと向かった。

わけなく着いた。
「ど、どひゃあああーっ」
着いたはいいが、びっくり仰天、小さなその店内や店のまわり、めっちゃくちゃな人だかりだ。

「ぬ、ぬぁんだあ、この大勢さんは....!」
バーゲンにしてもこの数は尋常ではない...
「あああ..なんと!」
見ると、店内奥の壁とショウウインドウの横に大きな画面があって、WBCの決勝戦、日本対キューバの9回裏が放送されている。
集まった100人くらいの人たちはみんな、日本のピッチャーがストライクとるたび一斉に大歓声だ。

「いつだっておれは”お祭りさわぎ”に行動をじゃまされる」
と、頭(こうべ)を垂れ苦笑いした。
 
野球がほんとうに好きなら、街に出てこないで、家でしっかり正座して気合いを入れて見ればいい。
あるいは、野球にあんまし興味がなくて、天神にショッピングに来てんのなら、買い物だけに集中すればいい。
この、中途半端な烏合の衆は一体なんなのだろう?と思った。
 
思ったが、そんなこと憤ってても時間がもったいないので、店内に押し入った。
人垣かき分け前進する。
場の空気を乱す乱入者に、ひとびとは眉をしかめる...

やっとこさどうにか男水着のコーナーにたどりついた。

が、あろうことかその場所は、ちょうど、野球中継映像の真下だった。
テレビ画面の下、それと同じ幅のハンガーラックがあって、そこにずらりメンズスイムウェアーが並んでいる。

何が悲しくて、100人の視線にさらされながら海パンを選ばなくてはならないんだろう...
しかも、「あー、見えなーい!」とか、「何ーっ、あの人ーっ!」とか、「ありゃあ、あの人イチローに似とらんかい?(時々何でか年寄りにだけそう云われる)」とか、罵声みたいなもの浴びながら、だ。

もちろん、(と、いうまでもなく、もちろん)その時買い物してるのはおれひとり。
一体全体どういうわけで、水泳道具屋さんで水泳道具を買う人間が、水泳道具屋で野球見てる人間にその行動をじゃまをされなければならないんだろう。

こっちはただ単に水着買って泳ぎに行きたいだけなのに...
 
そうぼやきながらも、くじけてはならんと吟味して、やっと自分サイズの素敵な柄を見つけた。
「うむ、これでよし」

と、ちょうどその時、ワアアアアアッと大歓声、続けてすっごい大拍手。
日本が勝ったらしい...

その時点で、「だめだ、これは」と、水着を買うのはあきらめることにした。
この轟々ざわめく人だかりの中から店員をさがしてたら、泳ぐ前からへたばってしまう。
運良く店員見つけたとしても「何だいあんたは!この感動をじゃまするなよ」と、迷惑がられるだけだろう。
抱き合ったり小躍りして、喜びを分かち合ってる人たちの波間をなんとか泳ぎきって店を脱出した。

そう、
もちろん誰がどう見ても、こんなとき水着買う男のほうが異常だ。
偏り屈折してんのはこちらのほうである。
それはよくわかる。

そりゃあ、自分の生まれ育った国のひとたちが活躍すんのはうれしい。
そして、その活躍に目を細める同胞達の姿を見るのも、きもちがいい。
でもそれがいったん、大勢で大声になったとたん、(心はいっしょに抱き合うことを欲していようと)
身体がどうしても彼から離れようとする。

クリスマスの晩に図書館で古今和歌集読みふけってたり、空港到着ロビーにダライ・ラマ出てくるのを尻目に、売店で土産物熱心に選んでたり、戦時中、敵国の音楽夢中に聞いてたりするひとたちなんかとも、ちょっぴり人間の質が似通っているのかもしんない。

「そら、あんた単なるあまのじゃくやろう!」
まあ、簡単に言うとそうかもしれない。
けど、繰り返すけど決して好き好んでそうあるわけではない。
そんな質(たち)なのだから仕方がないのだ。

小学校の3、4年の時だったろうか、部屋でマンガを読んでいた。
とっても面白くって夢中でページをめくっていた。
と、母が庭の方からおっきな声で呼ぶので、しょうがなくマンガ置いて出て行ってみた。
指差す方を見ると眼下の街の一角、もうもうと黒い煙が立っている。
「こうじ、火事よ!」
「うん...」
「なかな大きかよ!」
「うん...大きかねえ...」
そう言うと、とっとと部屋へもどってまたさっきの続きを読みはじめた。
そしたら母がすごい剣幕でやってきて、
「あんたーっ、なにたらたらやっとっとね、火事があっとるとよ!さっさと見に行かんねーっ!」
とどなった。

とっても、びっくりした。
(まあ母が声を荒げたのにはいろんな理由があったのだろうが...)

それで、「こういう時」には、きちんとおろおろやあたふたやそわそわをしなくちゃならないんだ、っていうのを学んだ。
以来、見せかけだけはできるだけ周りと歩調を合わせるようにこころがけている。

けど、もちろんそれは見せかけだけで、悲しいかな持って生まれた中身は変わろうはずがない。
あまのじゃくチックな難儀な性質は今もそのままつづいている。
それでけっこうしんどいことも時にはある。

でも一方、そのおかげで(おそらくは)人よりちょっとだけうまく絵が描け、こうしてどうにか生計をたてることができているのではなかろうかとも思う。

先日、個展やったとき取材を受けた。
インタビュアーの人から「あなたの絵は何が描いてあっても、見る人を突き放すような感じがしない」
と言われた。
「ああ。そうなのか」とたいへんうれしかった。
人と繋がりたい(でもうまくできない)という心が、無意識のうちに手からカンバスの上にこぼれ落ち、絵を比較的親密なものにするのかもしれない。なぁ、とそうと思った。


さて、ここで気っ風のいい詩をひとつ。

 富岡多恵子 「身上話」

 おやじもおふくろも
 とりあげばあさんも
 予想屋という予想屋は
 みんな男の子だと賭けたので
 どうしても女の子として胞衣をやぶった
 
 すると
 みんなが残念がったので
 男の子になってやった
 すると
 みんながほめてくれたので
 女の子になってやった
 すると
 みんながいじめるので
 男の子になってやった
 
 年頃になって
 恋人が男の子なので
 仕方なく女の子になった
 すると
 恋人の他のみんなが
 女の子になったというので
 恋人の他のものには
 男の子になってやった
 恋人にも残念なので
 男の子になったら
 一緒に寝ないというので
 女の子になってやった

 そのうち幾世紀かが済んでしまった
 今度は
 貧乏人が血の革命を起して
 一片のパンだけで支配されていた
 そこで中世の教会になった
 愛だ愛だと
 古着とおにぎりを横丁にくばって歩いた

 そのうち幾世紀かが済んでしまった
 今度は
 神の国が来たと
 金持と貧乏人が大の仲良しになっていた
 そこで
 自家用のヘリコプターでアジビラをまいた

 そのうちに幾世紀かが済んでしまった
 今度は
 血の革命家連中が
 さびた十字架にひざまずいていた
 無秩序の中に秩序の火がみえた
 そこで
 穴ぐらの飲み屋で
 バイロンやミュッセや
 ヴィヨンやボードレールや
 ヘミングウェイや黒ズボンの少女達と
 カルタをしたり飲んだり
 東洋の日本という国の
 かの国独特のリベルタンとかについて
 しみじみ議論した
 そして
 専ら愛の同時性とかについて
 茶化し合った

 おやじもおふくろも
 とりあげばあさんも
 みんな神童だというので
 低能児であった
 馬鹿者だというので
 インテリとなり後の方に住家をつくった
 体力をもてあましていた

 後の方のインテリという
 評判が高くなると
 前に出て歩き出した
 その歩道は
 おやじとおふくろの歩道だった
 あまのじゃくは当惑した
 あまのじゃくの名誉にかけて煩悶した
 そこで
 立派な女の子になってやった
 恋人には男の子になり
 文句を言わせなかった
  


投稿者 azisaka : 21:19

インディア・ソング

2011年10月18日

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5年くらい前のこと、パリはサン・マルタン運河、北ホテルのはす向かいにある本屋さん付属のギャラリー(みたいなとこ)で個展をした。
30枚弱展示して7枚が売れた。買った人のほとんどが通りすがりの人だった。
けっして安い買い物というわけでないのに、展示場所がどこであろうが、知らぬ名前だろうが、気に入った作品は買い求める、っていうパリジャンのあり方にちょっと驚いた。
(一枚でも引き取り手が現れりゃあ幸いだと思ってた)

残った絵は、たたみ3分の2畳くらいある四角い布カバンに詰め込んで日本へ持ってかえることにした。
飛び立つ前日、レピュブリック広場の裏手の小さな安ホテルのベッドの上、四苦八苦してどうにか荷造りを終えた。

翌朝、パリとは思えないほど異様に蒸し暑い中、ゴロゴロでかい荷物を引いて駅へと向かって歩きはじめた。
すると間もなく雷鳴とどろき、すごい勢いで雨が降ってきた。
それで電車をあきらめ、仕方なく空港までタクシーで行くことにした。

パリでタクシーをひろうのは難しい。
雨ならなおさらだ。
身体をはってでも止めてやるぜと覚悟を決めた。

が、手をあげてると、ほどなくするするっと一台やってきてとまってくれた。
なんという幸い。
降りてきてトランク開けてくれた車の運転手は短パンに草履、野球帽を斜にかぶった小さな男だった。
同じ顔つきと肌の色、東洋人だ。

どしゃぶりが呼び寄せたのだろうか... 
豪雨が町並みを消し去った車の中、バタバタと激しく屋根を打つ音を聞いてると、サイゴンかどっかで人力車に乗ってるような気がした。

走り出してすぐに、強くなまったフランス語が前方から聞こえてきた。
この湿り気に似つかわしい、インドシナ半島らへんのなまりだ。
彼はヴェトナム人だった...  

パリへは知人を頼って十年前に来たらしい。
半年経ったころ同胞の集まりでラオスの娘と出会い、3カ月後には結婚した。
着いてしばらくはフランス語もままならず、さりとて語学学校へ行く余裕もなく、とても苦労したそうだ。

中華料理店で働きながらタクシー運転手をめざしたが、教官が何をいってるのかわからない上、無数にある通りの名を覚えきれず、何回も試験に落っこちた。

それでもやっとこさ受かり、仕事をはじめたけど、最初の3年くらいは道を聞き違えたり迷ったりと苦い経験がつづいた。

ぼくが同じアジアの人間だということだったのであろうが、彼のおしゃべりの主題はずっと、「フランス人はバカだ」というものだった。

よほど日々、腹に据えかねることがあるのだろう、空港に着くまでの一時間あまり、これ幸いと一方的にまくしたてた。
こちらはこちらで、程度の差あれ似たような印象もってたので、「うん、うん、そうそう、その通り!」と、相づちを打ちつづけた。

曰く、
あいつらはろくに身体動かさず口先ばかり達者なだけでたくさん稼いでる。
外見だけで人を判断するんで、短パンはいたアジア人なんて犬っころ同様の扱いだ。
道徳ってものがまったくなくって、小学生でタバコを吸い、人前で抱き合い、親を全然大切にしない。
慎み深さが皆無で、自己主張ばかり、常に自分が大将だ。

しかし、おれたちアジアの人間は違う。
慎み深く勤勉で親孝行、人間の本質を見る目をもっている。

実際彼は、仕事以外、フランス人と接することはほとんどないようだった。
家では母国語で会話し、友人もみな同郷のものたちだ。
「もし、自分の国で仕事があり、家族を養って生きていけるのであれば、こんなとこにいる必要などこれっぽっちもないのだが」としみじみ言った。  

どしゃぶりの高速道路。時に身振り手振り、時にふり返りながら話すので、ひじょうに危なっかしかった。
幾度もひやっとした。
けれどそのスピードと大声とはうらはらに、車内は奇妙な親密さで満たされていて、「いっしょに死ぬ相手としては、そう悪いほうではないよなあ」などと思ったりした。

そうこうしていると空港が見えてきた。
すると最後、ふと我に返るように彼がぽつんとつぶやいた。

「でもフランスは何だかんだいっても大したものだ...だって外国人に仕事を与えてくれる。」
「おれたち望んでも、日本では働けないもの...」

Jeanne Moreau 「India Song」

投稿者 azisaka : 20:50

ペンネーム

2011年10月12日

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高校時代、在籍してた水泳部は弱小で部員も少なく、一つ上の先輩は男女各1名だけだった。
女の先輩は器量も性格も部に不釣り合いなほど良かったが、一方、主将である男の方は、姿はずんぐりむっくり、性格は妙ちくりんだった。
みんなブランド物のスニーカーなのに彼だけ購買部で買った運動靴(しかもマジックで自分の名前を書いていた)で、校則通りのストレートズボンを履き、頭は丸坊主だった。

そんな風に我が道を行くひとであったが、その反映かいつも虚勢をはっていた。
”潜水で50m泳ぐのは困難”と誰かが言えば、精一杯無理してそれをやって見せ、ぜえぜえ言いながらも”あーん、調子良かったらまだあと25mはいけるばい!”とうそぶき、世界文学の有名どころはほとんど読んだと豪語し、どう見ても童貞なのに”女というものはなぁ”とどこかで読んだ性的な話を後輩に得意げに語った。
まったくもって自分を飾ること能わざるの、愚朴で、野っ原の土塊みたいな人間だった。

ある日のこと部員の誰かが、まったくの冗談で「先輩たち2人はつきあってるんですか?」と彼に聞いた。
真に受けた彼は赤面してうつむくと、「ははははは、おまえらにゃあそう見えるかもしれんが、俺たちは何もなかとばい」と甲高く言いいながら、額の上で何回も手を振った。
女の先輩にいかした彼氏がいることを学校中で彼だけが知らなかった。
 
高総体が終わり、2人の先輩の送別会が顧問の先生の下宿で行われた。
ワイン(その先生が葡萄酒党だったので)がたくさんでた。
先輩は「俺はいつも親父の焼酎ばくすねて飲みよっけん、これなんかジュースのごたる」といいながら注がれるまま(そうじゃなけりゃあ自分で勝手に注いで)ごくごく飲んでた。
そうしてみんなチェッカーズだとか松田聖子のはずんだ歌なのに、彼だけが長渕剛の誰も知らない暗い曲(”堕ちてきた~堕ちてきた~”っていうやつ)を絶唱した。
 
夜が暮れ宴の終わり、最後に別れのエールをすることになった。
部員全員で肩を組み円陣をつくり、最初に主将の彼が「佐南(佐世保南高校の略)ーっ!」と叫んだ後、「ファイト!」「オーッ!」と全員で叫ぶのだ。

広間の畳の上、真ん中に円陣を組んだ。
みんな感無量で涙目だ。
先輩がひとりずつゆっくりと皆の顔を見回す。
そして一回、目を強く閉じると一転カッと見開き、「じゃあいくぞおまえら」と静かに言った。
つづいて、どでかい声で「佐、南~!」

ゲボゲボゲボボボボボーッ...
 
彼は叫ぶと同時に円陣の真ん中、畳の上に今まで飲み食いしたものを全部吐いてしまった。

酔った眼に、それはスローモーションで落ちてくる無数のガラス玉に見えた。
キラキラと輝いて、ほんとうにきれいだった。

彼は高校3年間の虚勢を全部そこに吐き出したのだった。
気付くと女子部員たちが汚物を手ですくっていた。

この先輩の名がアジサカである。
ぼくの本名は別にある。
イラストレーターとして食べていこうと思った時、この彼の名をつかうことにした。

投稿者 azisaka : 07:14

お知らせ

2011年10月03日

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イラスト描いてる友達が古いマンションの一室でひそやかにギャラリーをやっています。
今週末からちょっとの間そこで行われる企画展に参加することになりました。
期間は2011年10月8日(土)~23日(日)で、
期間中の土日月曜日開催です。

「少女採集」(ちょっとどきっとしますけど)というテーマということで、そんな感じがしないでもない絵を6枚展示販売いたします。
どんなんかといいますと、上に添付したみたいなもので、サイズはすべてF4(33X24)です。

さて、アンニュイな少女の絵ばかり描いてるそこの主人ですが、作品とはうらはらに、メガネとお笑い好きのひょうきんな女性です。
場所が若干わかりづらいですが、どうぞみなさん気軽に立ち寄ってみてください。

詳細は以下のサイトをご覧ください。

「ギャラリー亜廊」

投稿者 azisaka : 18:54

まなざし

2011年10月01日

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「あずみ」っていうマンガがある。
主人公の女の子らは生まれた時から人里離れた山奥で共同生活、
忍術や武術、剣術なんかの特訓をひたすら受ける。
そしてしかるべき年齢になったとき山を下り、殺しを命じられるのだが、敵が相当な使い手なのにもかかわらず、あっけなく斬り殺してしまう。
山の中の閉じた世界、その忍術仲間の内においては、獣よりも素早く駆けたり、飛んでくる矢を紙一重でかわしたり、猪を一刀両断にしたりするのは、他のどの仲間でもできるごく普通の当然のことだった。
しかし、そこから一歩出てみたらそれは人間離れした特別な能力で、対する剣客の動きがやたらとのろい。
まるでスローモーションでも見ているようなのだ。
自分の強さはごく当たり前と思っているので、相対した敵の弱さのほどに主人公のあずみはただただあきれ驚いてしまう。そのくだりが面白い。
 
さて、むろん、彼女らなんかとはまるっきり桁が違うのだけれど、ちょっぴり似たような経験がある。
大学に進学し、中国拳法の部活をはじめて間もなくの頃だ。
他の連中はほとんどが武術は未経験だったけど、こちらは中高あわせて5年間、週末だけとはいえ空手の道場に通っていた。
そこではまあ、強くもなけりゃあ、かといって負けてばかりというわけでもない、普通の空手やってる兄ちゃんだった。
しかし、大学の部活ではけっこう強い兄ちゃんになっていたのだ。
寸止めではなくグローブはめて実際に殴っていい、ってのが性に合っていたのかもしれないが、とにかく楽に勝ててしまう。
パンチパーマのケンカでならしたというやつ(なんでこんな輩が国立大学に通るのか不思議だったけど)も、見た目は非常に怖いが、組み手やると突き蹴りはぜんぜんしょぼくって、その弱さ加減にびっくりした。

そんなわけなので、さしてまじめに練習したわけでもないんだけど、最初の大きな大会(つまり新人戦)は一回戦、二回戦と勝ち上がり、いつのまにやら準決勝まで勝ち上っていた。
「ほう、これは優勝するかな...」とちょっとだけ思った。
それで「よっしゃあ」といつになく気合いを入れて試合に臨んだ。
ところが、「おりゃーっ」と放った拳はいとも簡単にかわされ、代わりに見たこともない早さでパンチが飛んできた。
しかも重い。
ズバーン。
なんだあこりゃあ!?いってえーっ、頭ぐらぐらやん、ひゃあ!
と、あっけにとられてるうち、さらにズバーン。
たちまち2本とられあえなく敗退。

後で聞くとそいつは高校時代ボクシングで鳴らした強者だった。
まるっきり格が違ったのだ。
まあ、それでも三位決定戦には勝ち入賞を果たしたので、その後しばらくはクラスや同郷の仲間内ではちょっとしたヒーローだった。

しかし良かったのはそれっきり。
その後ずっと華々しいものはなかった。
せいぜいが小さな大会で2、3回勝ち、準々決勝に進むくらい。
高校までの武道貯金はすぐに使い果たしたし、大学での生活に慣れ夜のバイトをはじめ、練習あんまりまじめにやんなくなったからだ。

さて、そんな風に生きてたら若い3年間なんてのはすぐに過ぎ、大学最後の大きな大会が数ヶ月後に迫ってきた。
するとなぜだか無性に、このまま卒業してしまうのは良くない、という思いが強く湧きあがってきた。
一花咲かせなければ、いろんなものに対して申し訳がたたない。
いろんなものって何やねん?っていうと、かつて通ってた道場の先生や、生んでくれた親や、お天道様とか、そんなもんだ。

その頃、部の実権はとうに後輩に移って半分引退の身であったし、卒論や就職活動で忙しい時期だったので、部活には行っても行かなくてもよかった。
けど、そんなわけ(申し訳がたたぬ身の上)なので他の部員が不思議がる中、毎日真剣に練習した。
部活のない日は自主特訓と謳い裏山を走り込んだ。

”別に誰かに頼まれたわけでもないのに、勝手に自分を追い込み、ただひとつのことだけにひたすら打ち込む”のが非常に心地いい!
ってのはこれはかつてむさぼり読んだスポ根マンガ、とりわけ梶原一騎の強い影響だ。(たぶん)
人生の端々でちょこっとは生活を”ジョー化”しないことには生きているという実感がわかないのだ。

だんだんと、なまってた身体がひきしまり、心身が野性的になってくるのがわかった。

そうこうするうち日は流れ、最後の大会がやってきた。
身体がとっても軽い。
なんにしても同じだと思うんだけど、調子がいい時っていうのは、その実感があまりないもんだ。
つまりうまくやってるときには、うまくやってるというという意識がない。
事に当たって計画だとか戦略だとかをたてる前から身体が勝手に動いて、気がついた時にはすでに事は終わってしまっている。
したがって、自分でやったっていうより、誰かにやってもらったみたいな感じで、充実感はあんまし得られない。
たとえば、ふと顔を上げたら、眼前にいつの間にか素敵な絵が出来あがっていたりとか(時々ある)、はっと気がついたら想っていた女の子が隣で眠っていたりとか
(ほとんどない...)

さて、その時、つまり先ほど話してた大学最後の大きな組み手の大会の時は、すぅーごーっく!調子がよかった。
したがって、(笑っちゃうけど)はっとわれに返ったら決勝戦の舞台に立っていた。
いつの間にやら4、5人に勝っていたというわけだ。
(なんとその中には驚いたことに、その頃負け知らずの現主将の後輩や、よく練習試合やる隣の大学随一の猛者なんかもいた。)

でもって今、対峙してんのは、なんと伝説のあの人だった。
学生時代、無敗の天才として九州中にその名を馳せた人だ。
かつて彼のライバルといわれた人で、うちの部にときどき指導にやってくる、これまた名うてのすさまじく強い先輩がいるのだが、
その先輩といえど、ただの一度も彼に勝てなかった。

今は社会人になってるそんなレジェンドな人が、なんでまたこの大会に出てるのか不思議だったんだけど、彼には彼の理由があったのだろう。
むろん、彼が出場すると決まった時点でその優勝は約束されてんのと同じだった。

さて、伝説の彼の、そのライバルであった先輩とは何度か拳を交えていた。
交えたっていうか、あんまり桁外れに強いので、交える以前にたちまち突き蹴り入れられて完敗した。

そんな先輩より彼は数段強いっていうんだから、あれこれ考えてもまあ無駄なことだろう。
第一、目の前に立つそのたたずまいの、深い森のような静けさが「ここは頭を使うとこではありません」ってこちらに告げているではないか。

頭を閉め、こころをすっかり身体にゆだねる。
”はじめ”のかけ声があがる。
それとともに、すーっと前に出て行く。
気負いなんてものはなく、無防備でふてぶてしいことこの上ない。
皇室に招かれて、やおらパンツ一丁、縁側に寝そべって池のでかい錦鯉見ながらアイス食べ食べマンガ読んでるみたいだ。

スパーン!と伝説男の左の胴、きれいに蹴りがはいった。
さして重くはなく、実践であるならば痛手なんてのはほとんどなかろう...
が、タイミングが良かった。
審判は三人とも即座に旗をあげ、一本となった。
会場はみんなびっくり仰天、すさまじい歓声。

伝説は「あれ?こんなので一本?」と少し眉をあげ、驚いた風な顔をした。
が、それももつかの間、その眉間のとこが、ぴかーんと輝いた。
わあ、本気になったのだ。
すっと、構え直すのだが、ほうとため息をもらすほど、かっちょいい。
今まで実際に対峙したことのある立ち姿の中で、最も美しいものだった。

見とれていたら、左の脇腹のとこが、ちょこっとだけむずっとした。
そのむずっとしたところが、相手の右足をすさまじく大きな吸引力で引き寄せる。
びゅううううううーっ!

ど、す、ん!
それは明らかに、部活で武道やってる学生の蹴りではなく、武道家の蹴りだった。
胴を巻いておらねば、あばらが数本折れていたであろう気がした。

ほわあ、こんな人、こんな世界もあるのだなぁ、とすっかりぼんやり夢心地になった。

そうやってて数十秒たち夢からさめると、伝説の男がさらに一本とって勝ち名乗りをあげているところだった。

閉じてた耳が開き、そこに拍手が鳴り響く。
わあーっ!
拍手はこちらに向けられたものが多いような気がした。
なぜなら、聞いたこともないやつが決勝まで勝ち上がり、さらには伝説の男から、へなちょこ蹴りだとしても一本とったからだ。

と、前置きがずいぶん長くなってしまったが、以上はちょっと格好つけた自慢話で、別にあえて語るほどのことでもない。
語りたかったのは以下のことである。

勝っても顔色一つ変えぬ伝説男と主審に礼をして自分の大学が陣取ってる場所へもどると、拍手と歓声が出迎えてくれた。
ふうと、腰を下ろし気がつくと汗びっしょり。思わず声が漏れた。
「誰かタオル...」
するとすぐさま、斜め前から「押忍!」といってタオルが差し出された。

差し出した男の、その瞳を見てびっくりした...

彼は同じ大学の人間ではない。時々練習試合をする近くの私立大学の2年か3年で、何となく顔を覚えてる程度の目立たぬ存在だ。
その彼が向けるまなざしの質が、それまで経験したことのないものであった。
それが、たいへん好意的なものであるというのはわかった。
しかしそれは、お乳飲ませてくれる母の目でもなければ、チョコレート渡す女の子の眼でも、口づけ交わす恋人の瞳でもなかった。

ああ、これは”尊敬”のまなざしだ!

生まれてはじめて向けられる、「あなたは、ほんとうに立派です、すごいです!」という声明だ。

彼の瞳にはいっさいの曇りなくガラス玉のようにピッカピカで、
ほんとの真心だけから生じる光を放っている。
まったくもって信ずるに値するものなので、その輝きが望むのであれば、たいていの規則は犯すことができるであろうし、己が腕の一本や二本くれてやってもまったく惜しくはないという心地がした。
あるいは、その輝きのエネルギーによってどんなことでもできそうな気がした...

さて、それから二十数年が経つ。
不思議なはなしだが、四年間の大学生活の中でもっとも繰り返し思い出されるのは、というより絶えず身近にあり、ときおり強く感じるのは、
他でもないこの名も知らぬひとりの青年の、一回限りのまなざしだ。

例えば、パリ暮らしの時代、貧しい身なりの黄色いアジア人というので邪険に扱われた時、福岡へ帰ったもののイラスト仕事がなく途方にくれてしまった時、ベルギーに住み始めたけれど人付き合いがいやになり孤立した時、自信をなくし冷えた心を暖めてくれたのは、
他ならぬ彼の瞳に灯るあかり、つまり”こんな自分でもかつて一度はたしかに人に尊敬されたことがある”という経験の小さな輝きであった。

そしてまた、それ以上に驚くべきことには、絵を描きはじめてしばらくしてからは、彼のそのまなざしが、最も信頼のおける批評家となったことだ。
どういうことかというと...

大学出てバイトしながら絵ばっかりひたすら描いてたら、しだいに、他の絵描きのことは気にならなくなってきた。
どのみち自分よりはるかに優れてるので、比べてみたって己のふがいなさに嘆くだけだし、あんまし為にはならないからだ。
さらにはだんだんと他人の評価というのもそれほど大切なものではなくなってきた。

問題は自分だ、他人は関係ない、と思うようになった。
周りがどうであろうと、自分が充分に力を尽くしたと納得したならそれでよい。
そうしてできた作品の横に並べて比較するとするならば、それはただ唯一、自分の過去の作品だ。
今描き上がったものが、昨日描いたものよりもちょっとでも良くなっている、と、そう自分が思えばそれでいいんだ。
(以上、大仰な言い回しで恐縮です。)

ところがしかし、それだけでは、何かが足りない...

”自分”だけではなんだか不十分なのだ。
自分以外の別の何かが”良し”と言ってくれないことには、納得し先へ進むことができない。

その”何か”に、彼のまなざしがなったのである。

つまり、「うむ、今日はけっこういい絵が描けた」と筆を置くとする。
その時、ほんとうに力を尽くし良くやったのであれば必ずや彼が登場し「押忍!」と言ってあのまなざしを向け、タオルを差し出す。
しかし、自分が良くやったと思ってても、実際に(どんな実際かまったく謎だけど...)そうでなけりゃあ、彼は現れない。

このように、自分以外のもので、現実にはいないのにもかかわらず、その行いを、何がしか尊いものとして承認してくれる存在、そんなものに、もはや彼と、その瞳はなっちまったのである。
ひゃあ、びっくりだ...

先に話した最後の大会の時、その時は、誰がどう見たって主人公は準優勝した人間の方で、2回戦かそこらで敗退しタオル差し出した人間の方ではない。
しかし、その後の人生ではなんとすっかり立場は大逆転してしまった。

タオルは、準優勝のことなどすっかり忘れ去ってしまっているだろうが、準優勝にとってタオルは今や、その生活を時に励まし、時に律する、輝けるヒーローみたいな存在となっている。

まったく人の世のしくみというのはちんぷんかんぷんだ。

彼は、映画とか小説とかそいうった芸術作品をつくったわけでもなければ、講演や論文で自説を説いたわけでもない。
もちろん権勢を笠に大きな声で命令したわけではさらさらない。
他人を一度、ほんとうに敬っただけである。

人を動かすには、真心から生じた敬意のまなざしを向ける、ただそれだけで事足りる。

他の人はどうか知らないけど、少なくとも、ぼくの経験はそう物語っている。


と、書いて、けっこう満足して筆を置く。
「押忍!」と言って彼がタオル差し出す。

おお、やったーっ!
でも、彼について書いたものだからなあ、点数が甘いのは当然やもんね...

今回の曲
小川美潮「夜店の男」

パリに暮らしてた頃、ベルヴィルっていう移民街のぼろアパート、中庭挟んだはす向かいの住人はファンキー野郎だった。
しょっちゅうバカでかい音で、J.Bやスライやパーラメントを聞いていた。
それに対抗して負けじと大音量で聞いてたのが、ちょうどその頃友人に送ってもらった小川美潮のCDです。
パリを舞台に日米戦!(笑)
なので、この曲聞くと、なんでか屋根裏の窓からほんのすこし見えるモンマルトルの丘のことを思い出す。
彼女の歌声はあの街の長い夕暮れによく似合ってた。

投稿者 azisaka : 22:44